94 遍照院三重塔 (岡山県倉敷市)

遍照院三重塔 (岡山県倉敷市)
 JR山陽本線で岡山から広島に向って西阿知駅の手前左側にちらっと朱塗りの塔が見える。遍照院三重塔である。
 遍照院は、岡山県倉敷市西阿知町に所在する真言宗御室派別格本山の寺院。山号は神遊山。詳しくは、神遊山神宮寺遍照院という。本尊は十一面観音。倉敷市の市街地から西方の高梁川に近い平地に位置し、周りには住宅地が押し寄せてきている。
 寺伝によれば、平安時代の寛和元年(985年)、智空上人が花山天皇の勅願を受け、市内にある式内社足高神社の神宮寺として開山したと伝わる。 寺院の西隣には熊野神社があり、神仏習合の形体を留めている。 延久元年(1069年)には、後三条天皇の祈願所の一つに列せられたと伝えられている。
 備中国南東部の有力な寺院として、31ヵ寺の末寺を有した。天正年間(1573年 - 1592年)には、毛利家より寺領2,000石を、江戸時代になると、岡山藩主池田家の祈願所として寺領50石を与えられた。
 三重塔が、樹木のない境内にスッキリとその美しい形を現わしている。全体のバランス、屋根の勾配、反りが美しい。三重塔は、従来、永享年間(1429〜41年)の再建と伝えられていたが、昭和41〜42年にかけて行われた解体修理の際に、応永23年(1416年)の墨書が発見され、室町時代前期の再建であったことが判明した。
 軒の出が深く、屋根の緩い勾配や反り具合、各階平面・屋根の逓減率(上層にいくにしたがって小さくなる比率)もほどよく、きわめて美しい。木鼻の絵様、板彫式蟇股の意匠などに、室町時代前期の建築様式の特色がよくうかがわれ、均衡のとれたその形態は塔としての品位を示し、端正で美しく、国内有数の三重塔であり、国指定重要文化財である。
 倉敷市西阿知地区は、イグサの県内主要産地であり、特に西阿知地区に花莚が移入されたのは、明治30年頃で、その後、織機の改良やデザインの工夫などにより全国一の生産量になった。昭和29年発行の「岡山県藺業発達史」の業界展望によれば「同地区が世界一を誇る輸出花莚の王座として斯界(しかい)に君臨している」と記されている。当時、高梁川の堤防には、花鳥風月などをプリントした捺染花莚、無地ものの花莚、あるいは花柄や幾何学模様を織り込んだ織込花筵が一面に日干しされ、近隣の農家からは早朝から夜遅くまで織機の音がガチャン、ガチャンと鳴り響いていた。
 イグサの栽培の歴史は古く、倉敷や岡山一帯の古墳から畳やイグサが出土されており、約1500年前にはすでにイグサが栽培されており、全国で最も古いとされる。
 全盛期の昭和45年頃では全国のイグサのほとんどが岡山県で生産され、岡山県内のイグサの大半が倉敷エリアで生産されており、岡山市の新田地帯(上道新田)と並ぶ一大生産地であった。刈り入れ時には人手が足りないほどで、九州方面等から出稼ぎ労働者が大量に訪れ、刈り入れを手伝っていた。
 今では、高梁川の堤防で行われ、季節の風物詩であった「花ござの天日干し」も、観光PR用に行うにすぎないとのこと。

93 清水寺三重塔(島根県安来市)

清水寺三重塔(島根県安来市
 清水寺三重塔は、3階まで登ることができる。五重塔、三重塔を問わず、登ることのできる塔は、全国でもこの搭だけである。
 清水寺は、山号は瑞光山、通称「きよみずさん」の名で親しまれている。安来駅からバスに揺られて15分ほどで、バス停「清水」に着く。鬱蒼とした森の中へと続く参道に入っていくと、 両側にたくさんの幟がはためいる。大門をくぐって、なおも階段を登っていくと、精進料理の食べられる旅館「松琴館」、「紅葉館」に続いて、根本堂など主要な堂塔伽藍が見えてくる。さすが山陰道屈指の天台密教の道場だけあって、深山幽谷の雰囲気の中に、霊験あらたかな気配がただよう。
 寺伝によると、用明天皇2年(587年)、尊隆上人によって開創されたという。当時この山は一滴の水も出なかったが、一週間祈願したところ水が湧出し、しかもその水が雨期にも濁ることなく、乾期にも枯れることなく、常に清い水を湛えたところから清い水の出る寺、清水寺命名されたと伝えられる。
 その後、堂舎荒廃し、大同元年(806年)に平城天皇の勅を受け、七堂伽藍が完備された。
 承和14年(847年)、慈覚大師円仁が唐からの帰路立ち寄り、光明真言会が創められ、天台宗に帰依したという。
 盛時には四十余坊の大伽藍がひしめきあっていたといわれるが、尼子と毛利の戦いに巻き込まれ、残念ながら毛利に全山を焼かれてしまった。その後戦いに勝った毛利家によって、江戸時代に入っては松江藩主歴代の庇護を受け、今日の伽藍に再興、厄よけ・祈祷の寺として発展する。旧観におよぶべくもないが、それでも島根県内では、有数の文化財の宝庫である。
 根本堂は、室町初期の明徳4年 (1393年) に建立され、戦国の兵火をまぬがれた唯一の建物で、国指定重要文化財。平成4年 (1992年) に4年6箇月をかけた全面解体修理が完了し、現在の姿となっている。本尊十一面観音立像(重文)は、平安初期の一木彫飜波式で、出雲様式の代表といわれる。阿弥陀堂の丈六阿弥陀坐像(重文)は、山陰の大仏といわれるほど重量感がある。常念仏堂の阿弥陀三尊像(重文)は、藤原時代の優雅な作品。いずれも境内の宝蔵に移されて展示されている。
 三重塔は、総ケヤキ造りで、江戸後期の建築ながら、山陰では現存する唯一の木造多重塔である。名もない庶民一万人が講を組織し、その浄財により建立された。文政10年(1827年)、恵教和尚のもとで始まり、住職二代、大工三代の悲願の末、33年がかりで安政6年(1859年)に完成した。本瓦葺、高さ 33.3m、県指定文化財である。
 天候を見定めての旅であったため、拝観の予約を入れることなく来たため、塔の内部には入れなかった。登った方によると、かなり狭く急な階段で、中は真っ暗。 頭上に注意しながら手探り状態で登る。最上層まで登ると一気に展望が開け、伯耆富士大山から鬼太郎と妖怪が住む境港まで一望でき、それは素晴らしい眺めであったという。
 もともと我が国の三重塔や五重塔は、ストゥーパを起源に持ち、 外から参拝するものだったようだ。 したがって、中に入れてしかも最上部まで登れる清水寺の三重塔は珍しい存在である。

92 備中国分寺五重塔(岡山県総社市)

備中国分寺五重塔岡山県総社市

 備中国分寺は、岡山県総社市にある真言宗御室派の寺院。山号は日照山。本尊は薬師如来奈良時代聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあたる。
 寺伝では、廃寺となっていた国分寺天正年間(1573年-1592年)に備中高松城清水宗治が再興したが衰微し、江戸時代中期の宝永年間(1704年-1711年)に再建されたとされる。
 岡山は、吉備路自転車道吉備高原自転車道など、自転車道が発達している。そこで、総社駅で、貸自転車を借り、走る。総社駅から、街中を抜け、刈り取りを待つばかりの田の中を走って30分。秋も深まり、観光客も少なくなっているとはいえ、備中国分寺は、観光地吉備路のシンボルであり、訪れる人は多い。
 なだらかな起伏の丘に建つ五重塔は、高さ34.32m。南北朝時代奈良時代の七重塔(推定高さ50m。塔跡が残る)を焼失したのち、文政4年(1821年)に位置を変えて再建を開始、弘化年間(1844年-1847年)に20数年をかけて完成した。江戸時代後期の様式を濃く残す岡山県内唯一の五重塔
 当初は三重塔で計画されたのを五重塔に変更したとされ、3層までは総ケヤキ造り、4・5層はマツ材が主体である。心柱は、松材が用いられ、床下の礎石から塔の中心を貫いて相輪に達している。
 帰路は、吉備線に乗る。総社駅から4駅目が、備中高松駅。駅から歩いて10分のところに、秀吉水攻めで有名な高松城がある。
 天正10年(1582年)の頃、高松城は、城の周りを深い沼で囲まれた要害堅固な城。東と北に山を背負い、南は高梁川の自然堤防で少し高く、西は足守川に向かって少しずつ高く、ちょうど擂鉢状の形をしていた。
 秀吉は、力攻めでは不可能とみて軍議の結果、黒田官兵衛の献策に従い、水攻めを決行。わずか12日間で築堤を完成させる。折からの大雨、足守川土合橋付近を 堰止めし、堤の中に流れ込ませた。
 水攻めの最中、主君である織田信長明智光秀に討たれる、本能寺の変が起きる。その報を聞いた秀吉は、ただちに毛利方と和睦を結んで、城主清水宗治切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を京のある山城国へと不眠不休で走らせる。「備中大返し」である。
 数年前、各地で上映され好評だった「のぼうの城」は、秀吉の小田原征伐の際に、この水攻めをまねて、石田三成が行った忍城水攻めがテーマ。忍城の総大将たる成田長親は、将に求められる武勇も智謀も持たない、その名のとおり「でくのぼう」のような男。普通は、武士と百姓は相容れない存在、戦に協力してくれる百姓はいない。誰が戦をすると言い出したのだという問いかけに、長親だと聞けば、「のぼう様のために共に戦おう!!」と立ち上がってくれる。のらり、くらりと百姓たちのところに顔を出して、のんきに田楽を謡い踊っているのが、こんなところで役立つことになる。自然と百姓たちの中に溶け込んでいた長親は、自然と領民たちの支援を勝ち取る。領民たちの支援が、忍城を水攻めから救う。
 民の力、民の支援が、大きな力を与えた。いつの世でも変わらない。

91 宝福寺三重塔(岡山県総社市)

宝福寺三重塔(岡山県総社市

 宝福寺は、雪舟が涙で描いたネズミで有名な寺である。
 室町時代備中国赤浜(現在の総社市赤浜)に生まれた水墨画雪舟は、少年時代ここで修行を行った。幼少より、絵を描くことが好きであった雪舟は、修行もそこそこに絵ばかり描いていた。修行に身を入れさせようと、禅師は雪舟を柱に縛り付けて反省を促した。夕刻、様子を見に来た禅師は雪舟の足もとに、逃げようとする一匹のネズミを見つけ、捕まえようとしたが動かなかった。よく見るとそれは雪舟が流した涙を足の親指で描いたものであったという。それ以来、禅師は雪舟の絵を咎めなくなった。
 宝福寺は、岡山県総社市井尻野にある臨済宗東福寺派の寺院である。山号は井山。本尊は虚空蔵菩薩。宝福禅寺とも呼ばれる。
 自転車で、総社駅から伯備線に沿って、高梁方面に10分ほどで、宝福寺に到着する。
 駐車場の直ぐわきに、柱に縛られている雪舟像があるが、ネズミを書いた部屋や建物は残っていないし、もちろん涙のネズミはいない。
 創建の年代は不明であるが、天台宗の僧・日輪によって開かれた天台宗の寺院であった。鎌倉時代の貞永元年(1232年)に備中国真壁(現在の総社市真壁)出身の禅僧・鈍庵慧總によって禅寺に改められた。
 当時の天皇四条天皇が病気となったとき、鈍庵が天皇の病気平癒のために祈祷を行ったところ、壇前に客星が落ち、天皇の病気は平癒したという。星が落ちた場所に井戸を掘り「千尺井」と名付けた。これが山号「井山」の由来となった。その後、天皇勅願寺となり発展し、一時は塔頭・学院55、末寺300寺を数えるほどの巨刹となり隆盛を誇った。
 雪舟が生まれたのは、応永27年(1420年)であり、10歳の頃には、京都の相国寺に移っており、雪舟が宝福寺にいたころは、最盛期だったかもしれない。
 戦国時代に起こった備中兵乱のため、天正3年(1575年)に三重塔を残し伽藍のことごとくを戦火により失った。その後、江戸時代に至るまで荒廃していたが、江戸時代初期に復興され、再び山門・仏殿・方丈・庫裏・禅堂・鐘楼・経蔵の禅宗様式七堂伽藍を備える本格的な禅寺となった。本堂にあたる仏殿は享保20年(1735年)に再建されている。
 三重塔は、境内の南西にある。総高18.47m。寺伝によれば弘長2年(1262年)鎌倉幕府の執権北条時頼が寄進して建立したという。しかし、昭和42年(1967年)に行った解体修理の際、永和2年(1376年)の墨書銘が発見され、南北朝時代の建築であることが確認された。意匠は、ほぼ和様で統一されている。禅寺とも思われないような色鮮やかな塔である。岡山県下では2番目に古い三重塔で、国の重要文化財である。
 文楽祇園祭礼信仰記」(爪先鼠の段)、雪舟の孫娘の雪姫は、今は亡き父、雪村の敵、松永大膳に仇討ちを挑んだものの捕えられ、桜の木に縛り付けられてしまう。逃れようと身をよじり、必死にもがくものの、縄はほどけず涙を流す。窮地の脳裏によぎったのは、かつて雪舟が同じように縛られた時に涙でネズミの絵を描いたところ、その鼠が縄を食いちぎったという話。雪姫は足元の桜の花弁をかき集め、爪先で鼠の絵を描き奇跡を起こす。
 無彩色の雪舟涙のネズミが、文楽では、色彩美あふれた屈指の名場面として描かれた。

小休止(17)岡山・島根5塔を巡る

小休止(17) 岡山・島根5塔を巡る

 長雨、猛暑、そして記録的な豪雨と、今年は、天候の変化が大きく、もうあと10塔となったところですっかり足踏みしてしまったが、やっと天候も落ち着いてきたので、久しぶりに出かけることにした。
 最後に訪ねる塔を備中国分寺五重塔にするか、瑠璃光寺五重塔にするかで、かなり迷ったが、瑠璃光寺を最後の塔として、今回は、岡山、島根を回ることにした。

10月6日(火)


大宮→9:05/高崎線/9:47→東京→10:10/JR新幹線のぞみ23号(指定席)/13:27→岡山→13:38/伯備線/14:08→総社→14:20/レンタサイクル2.15km20分/14:40→宝福寺(14:40〜14:55)


 吉備路は、吉備路自転車道吉備高原自転車道などが整備されていると聞いていたので、自転車で廻ろうと考え、総社駅前の観光案内所に入る。サイクリングマップをもらいながら、話を聞く。宝福寺までは20分程度、備中国分寺まではおよそ60分とのこと。いずれも平坦であり、国分寺には、吉備路自転車道で行くと良いが、自転車道に入るまでは道が分かりにくいので、気を付けてくださいなど、丁寧にわかりやすく教えていただいた。
 自転車は、すぐ先の荒木レンタサイクルで借りる。
 先ず宝福寺を目指して、線路沿いに北へと走る。ところどころに「井山宝福寺」の看板があり、道は、比較的わかりやすい。宝福寺では、雪舟の少年像がお出迎え。膝のところにネズミが乗っている。
 
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 宝福寺は、境内も広く、立派な構えの禅寺である。紅葉の名所として有名で、紅葉の時期には、ライトアップがされるとのことである。

→14:55/距離:6.15km時間:45分/15:40→備中国分寺(15:40〜16:30)

 吉備路自転車道は、整備されてから既に年数も経ているようで、かなりガタガタが激しく走り難い。それでも、ツーリング用の自転車がスピードを上げて走ってくる。我が方は、ママチャリなので、ゆっくりと走る。まだ日が高く暑いが、風がないので、走りやすい。観光案内所の女性が、農道を利用しているので、ジグザグが多いと言っていたが、そのとおりである。また稲刈りの時期で農耕車や草刈りの作業車など、駐車している。
 30分も走ったころから、前方はるか遠くに国分寺の塔が見えてきた。塔を目指して走る。周りは、稲刈りを待つばかりの黄色く実った稲、また赤く熟した実を付けた柿、白く輝くススキの穂、黄色い花を付けたのはアキノキリンソウセイタカアワダチソウ。黄、赤、白を前景に、黒々とした五重塔が凛と立っている。江戸時代中期に再興された塔であるが、古代の趣を見せている。

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 さすがに吉備路のシンボル備中国分寺五重塔、観光客も多い。多くの男女が塔の周囲、国分寺の境内を歩いている。

→16:30/レンタサイクル20分/16:50→総社→16:55/吉備線/17:35→岡山

 総社駅伯備線に乗ろうとしたら、吉備線の岡山行きが止まっていた。車掌に、岡山にはどちらが先に着くのか聞いたら、伯備線の方が早いが10分程度の差だというので、吉備線に乗る。吉備線は、あの水攻めで有名な備中高松城や神話の息づく吉備津神社の近くを通る。雰囲気だけでも味わえるのではないかと考え、吉備線に乗る。
 しかし二つ先の駅、「服部」から多くの学生が乗り込んできた。岡山県立大学の学生である。窓から陽射しが入るため、ブラインドを下ろしてしまった。残念ながら、窓の外の景色が見えない。



岡山泊



10月7日(水)



岡山→9:05/伯備線特急やくも5号/11:24→安来→11:40/イエローバス観光ループ/11:54→清水→11:55/徒歩10分/12:05→清水寺(12:05〜13:20)


 伯備線に乗って、備中高梁駅を過ぎるとまもなく「方谷駅」である。
方谷駅は、平成10年ころに訪ねてことがあるが、そのころとほとんど変わらない。
幕末の陽明学山田方谷の名をとった全国でただ一つの人名駅である。方谷が藩士の土着政策を実施した際、自らも帰農した居宅、長瀬塾跡に建っている。昭和3年の伯備線開業時、鉄道省は地名をとって「中井駅」或いは「長瀬駅」にしようとしていたが、地元民らが「方谷」駅名を請願した。
 駅名の由来となった山田方谷(1805〜1877年)は、嘉永2年(1849年)、板倉勝静が藩主となるや藩の要職を歴任、藩政改革を断行し、わずか8年間の改革で借金10万両(現在の価値で約300億円)を返済し、余剰金10万両を作った。越後長岡藩の破天荒な英雄河井継之助が、3度土下座を繰り返して生涯の師と仰いだ人物である。
 安来駅で、社会実験中というイエローバス観光ループ外回りに乗る。6人ほど乗っており、皆さん清水寺に行くのかと思ったが、途中でみんな降りてしまった。清水寺の参道手前のバス停「清水」で降りたのは私一人。
 参道には、厄除祈願の幟が多数立ち並んでいる。

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 大門を過ぎると、休憩所の松琴館に紅葉館があり、さらに登ると、境内は城のような石垣に囲まれている。石段を登ると、根本堂、護摩堂、鐘楼堂へと続く、三重塔は、さらに見上げるような石垣の上にある。お城なら、まさに天守閣である。


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 本堂で、住職と思われる方に、「三重塔は、登れると聞きましたが、予約なしではやはり無理でしょうか。」と聞いてみた。住職は、「土日は開放していますが、平日は予約だけとしています。見るとおり人がいないので、人をお願いして塔を開けるので、開けるだけで赤字となってしまいます。」と、申し訳なさそうに話され、こちらの方が申し訳なかった。
 境内図を見ると、展望台があるので、三重塔の展望を味わおうと、展望台へと登る。道は暗く、寂しい。熊でも出そうな道である。途中に、「山中鹿之助の槍研ぎ石」とあるが、この先という看板はあっても、これですという看板はないので、どれかよくわからないままに、展望台へと向かう。
展望台からは、西に「伯耆富士 大山」、南には、中海から米子市街が見える。三重塔と同じ眺めと納得して戻る。
 本堂の階段下に、高灯籠があり、これは、三重塔を造る木組みの研究のために建てられたという、確かに屋根の木組みが三重塔そっくりである。
 

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→13:20/ 10分/13:30→清水→13:41/イエローバス観光ルート/14:00→安来→14:16/特急やくも20号/16:27→倉敷→16:34/山陽本線/16:38→西阿知→16:40/距離:1.19km時間:14分/16:55→遍照院(16:55〜17:15)


 倉敷で途中下車し、山陽本線で一つ広島よりの西阿知駅で降りる。
 線路沿いを歩き、まもなく遍照院である。周辺は、古い町である。道は狭く、曲がり角では車がぶつかりそうである。遍照院周囲は熊野神社と隣り合って急に開けている。三重塔のすぐ前には、万国旗が吊られている。遍照幼稚園の看板。幼稚園の運動会があったばかりのようだ。
 もう夕陽。赤い三重塔がさらに赤く染まっている。
 遍照院を出て、右に曲がると、イグサ製品、花ござの看板が出ていたので、三宅清一商店さんに飛び込む。
 「イグサを見たいのですが。」「イグサは、稲の裏作で、11月に株分けし、植付け、7月に刈り取るので、今はどこにもない。」とのこと。「岡山県のイグサは、昭和40年代前半までは、日本一の生産量で、「イグサ王国」と呼ばれていたが、現在、生産は、熊本県や福岡県などに移り、また、中国産が多い。西阿知も、かつては製造業者がたくさんいたが、今では少なくなっている。」「高梁川沿いの花ござ干しは、春の風物詩といわれていると言いますが。」と聞くと、「実際には、夏から春にかけ、イグサから花ござを織るたびに、乾燥させ、カビをはやかさないようにするため干している。春に干すのは、今では、観光PR用に干している。」とのこと。途中から、花ござの製造をしている方が、お見えになり、一緒にパンフレット等を広げながら、熱心に説明してくださった。最後に、製造業者の方が、「うちに案内するから製造しているところを見ないか。」と、言って下さったが、既に5時を回り、薄暗くなっていることから、丁重にお断りし、駅へと向かった。


→17:30/徒歩12分/17:42→西阿知→17:42/山陽本線/18:06→岡山


岡山泊


10月8日(木)


岡山→8:09/瀬戸大橋線/8:36→木見→8:36/距離:1.65km時間:20分/8:55→五流尊瀧院・熊野神社(8:55〜9:35)→


 途中、宮内庁陵墓「頼仁親王墓」にお参りし、五流尊瀧院へ。

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 境内では、役の小角の像がお出迎え、意外とやさしいお顔をしている。

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 五流尊瀧院を抜けて、さらに真浄院を抜けて、熊野神社へ。最近、復興したという「長床」には、「所有者五流尊瀧院の寛大なご理解により、神社氏子をはじめ崇敬者のご協力で平成19年10月再建されました。」と書いてある。五流尊瀧院が、熊野神社を含むこの一帯を所有しているようである。
 現在、五流尊瀧院は、全国に三百を越える寺院や教会を持ち、千数百名に及ぶ熟達した教師、僧侶を擁する正統修験の総本山である。
9:35/徒歩20分/9:55→木見→10:03/瀬戸大橋線/10:30→岡山→11:23/JR新幹線ひかり468号/15:40→東京→15:49/高崎線/16:30→大宮

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90 竹林寺五重塔(高知県高知市)

竹林寺五重塔高知県高知市
 竹林寺は、「五台山」という立派な名を持つ、山の上にある。
 聖武天皇が、文殊菩薩霊場として名高い大唐の五台山に登り、かの地で親しく文殊菩薩から教えを授かるという夢を見た。そこで帝は、行基に日本国中よりかの大唐五台山に似た霊地を探し、伽藍を建立するように命じた。行基が、日本国中を探し、唐の五台山に似たこの地に創建したのが竹林寺四国霊場八十八カ所で唯一、文殊菩薩を本尊とする学問の寺である。
 「土佐の高知の播磨屋橋で、坊さんかんざし買うを見た」で有名な「よさこい節」の舞台でもある。よさこい節に歌われた純信とお馬の恋物語、その純信は、寺の脇坊妙高寺の修行僧。 鎌倉から南北朝時代には、臨済宗の学僧、夢窓国師(1275〜1351)が山麓に「吸江庵」を建てて修行、2年余も後進の育成に努めている。また、妙高寺が、明治初年の廃仏毀釈によって廃寺となり、その跡地にできたのが、「高知県立牧野植物園」である。
 五台山は、土佐の信仰や学問、文化の中心地である。
 土佐電に文珠通という停留所がある。国道32号を歩道橋で渡り、絶海池や民家の間を抜けて、竹林寺登り口に到着。ここから遍路道。墓地を抜けてかなり急な登山道を登ると、高知市内の展望が開ける。しばらく登ると、遍路道は、牧野植物園内に入る。牧野植物園は、高知が生んだ「日本の植物分類学の父」牧野富太郎博士の業績を顕彰するため、博士逝去の翌年、昭和33年(1958年)4月に開園。起伏を活かした約6haの園地には、博士ゆかりの野生植物など約3,000種類が四季を彩る。
 遍路道も、植物園内では、その表示は遠慮して、時にどこにあるのかわからなくなる。遍路の出口も事務所裏にあり、遍路はこっそりと園外に出る。
 竹林寺は、時代を経て江戸時代に至っては、土佐代々藩主の帰依を受け、藩主祈願寺として寺運は隆盛。堂塔は土佐随一の荘厳を誇り、学侶が雲集し、学問寺として当地における宗教・文化の中心的役割を担っていた。
 しかし、明治初頭の廃仏毀釈によって一時衰微し、その後、かつての寺観を取り戻すべく伽藍の復興整備を進め、ようやく往古の姿が蘇えりつつある。
 竹林寺には、足利時代の建築で俗に文殊の塔として、土佐随一の荘厳を誇った三重塔があったが、老朽化に加えて、台風のコースでそれも高台にあり、明治32年(1899年)の台風により倒壊してしまった。遺物としては、宝物館に安置されている高さ2尺くらいの相輪によって僅かに面影を知るのみである。
 現在の五重塔は、昭和55年(1980年)12月、復興したものである。
 建築工事は、香川県詫間町の富士建設株式会社が請負い、京都宇治の工匠岩上政雄氏がその施工にあたった。鎌倉時代初期の様式を用い、総高31.20メートル、総檜造り、使用木材1,320石、使用瓦2,800枚、宮大工延べ人数5,400人。
 富士建設株式会社は一般建築の他、社寺建築にも熟達した技術を有する大手建設業者であったが仏塔建築の経験はなく、社長真鍋利光氏は一度は塔を建ててみたいとの念願で全国仏塔を巡拝し研究を続け、この間に、京都で岩上政雄工匠にめぐり会い、更に岩上氏が副棟梁をつとめた志度寺五重塔工事を参観。こうして岩上政雄工匠とのコンビでの建設になったという。
 これも文殊様のお導きであったのであろう。

89 石手寺三重塔(愛媛県松山市)

 石手寺三重塔(愛媛県松山市 石手寺には、表の顔と裏の顔がある。
 国宝の二王門、国の重要文化財には本堂や三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、「建長3年」(1251年)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘が指定されている。それに寺宝を常時展示している宝物館を備え、四国霊場では随一ともいえる豊富な文化財を持つ寺院である。これが、表の顔である。
 本堂の左隣に不思議な面の架かった社がある。その奥に、「マントラ洞」という地下道の入口がある。ここが、裏の石手寺への入口である。マントラ洞内を通って奥の院へ進むと、朽ち果てた意味不明な像の数々。そして一番奥には『マントラ塔』と 呼ばれる黄金の建造物があり、その中に入ると多宝小塔を囲んで数多くの木彫りのトーテムポールのような仏像。
 松山駅に着いたのは4時近く、伊予鉄に乗る。道後温泉駅から、雨の中歩く。子規記念博物館、道後プリンスホテルを通り過ぎて約20分。石手寺の西側から入る。夕暮れ迫り、雨がしきりに降る。薄暗がりにかなり数の水子地蔵が並ぶ。冷気を浴びたようにゾッとする。
 もう5時近いので、遍路もいないし、観光客もいない。阿弥陀堂から、ガタガタと物音がして、何者かが、のそっと出てきた。お堂を閉めるので、掃除をしていた方のようだが、人気のないところで、急に人影があったので、びっくりさせられた。
 熊野山虚空蔵院石手寺は、縁起によると、神亀5年(728年)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野十二社権現を祀り、聖武天皇の勅願所となる。翌年の天平元年行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。
 「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892年)の衛門三郎再来の説話によるとされる。石手寺の最盛期であった平安時代室町時代には、7堂66坊の大寺院であった。その後兵火により焼失し、仁王門・本堂・三重塔は残った。
 今もなお、鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられたとの考証もある。
 三重塔は、鎌倉時代後期のもので、高さ23.88m。棟から中天に伸びて九輪・水煙を支える心柱は、初重の四天柱の頂部に架けられた梁で受けられる。心柱が心礎石に達しないこの構造は平安時代末期に始まり、鎌倉時代の塔に多く用いられた手法である。
 鎌倉時代後期建造の三重塔は、古い仏塔が多くない四国においてはずば抜けて古い歴史を持つ。和様で均整の取れたその塔は、派手さは無いが、鎌倉期の仏塔の特徴をよく示しており、重要文化財でありながら、 国宝クラスの名塔である。
三重塔の前には、「不殺生平和の折鶴」の大きな看板。そしてたくさんの折鶴が飾られている。塔の前に箱が置かれ、折紙が入っている。100円を納め、鶴を折り、箱に入れると、住職筆の短冊が戴ける。
 四国有数の古刹である石手寺が、このような表の顔と裏の顔を持つお寺となったのも、お寺が庶民のお寺として、生きていくための一つの方法なのかもしれない。