99 龍源寺三重塔(大分県臼杵市)

龍源寺三重塔(大分県臼杵市
 稲葉家の初代稲葉貞通は、関ケ原の合戦における戦功により、慶長5年(1600年)に美濃国郡上八幡の知行四万石から豊後国海部郡、大野郡、大分郡の三郡内に領地を持つ五万六十石余の臼杵城主となった。稲葉貞通は、あの「頑固一徹」の語源となった稲葉良通(号 一鉄)の子である。
 臼杵藩は、明治4年(1871年)、15代藩主久通の代で廃藩置県を迎えるまでの約270年間、稲葉家により統治され、質素倹約、勤勉といった臼杵人気質の礎を作り上げた。
 龍源寺は、稲葉氏が転封された年、藩主稲葉貞通により創建され、円誉上人により開山。浄土宗総本山知恩院の末寺。
 享保年間(1716年〜36年)に、町内の工匠が聖徳太子像を寄進し、太子を大工の日本の祖として祀り、寺内に小堂が建てられた。
 しかし、江戸時代末となって堂が荒廃し、それを嘆いた住職蒼誉(そうよ)上人が、臼杵の生んだ名工・高橋団内に相談し、高橋団内は、奈良や京都の古寺をめぐり、古い塔の長所をとり入れた理想的な三重塔の図面を引き、それを基に弟子の坂本荘右衛門が監督し、10年の歳月をかけ安政5年(1858年)塔を完成させた。
 総高21.8メートル、九州でも数少ない江戸時代の三重塔である。内部には、聖徳太子の像が安置されていることから太子塔と呼ばれている。江戸時代の作とは思えないほど、優秀な技術が細部まで施されており、塔の軒下には、ユーモラスな『邪鬼(じゃき)』を見つけることができる。大分県重要文化財に指定されている。
 西南の役のとき、龍源寺は、多くの堂宇を消失したが、三重塔と山門は焼失を免れた。大分も、西南戦争の戦場となったのである。
 明治10年(1877年)2月、明治新政府に不満を抱く鹿児島の不平士族が、西郷隆盛を総大将として大規模な反乱を起こした。5月になると、臼杵は良港に恵まれていたために、ここから船で大阪へ攻め込もうとする西郷軍の一隊が、臼杵へも侵入してきた。
 これらの鎮圧にあたったのは、旧臼杵藩士八百名で結成された「臼杵隊」と、東京の警視庁から派遣された、警察の部隊である警視隊である。
 NHKの大河ドラマ『八重の桜』の中で、中村獅童が演じた会津藩家老、佐川官兵衛もその警視隊に加わっていた。
 官兵衛は、維新後の明治7年(1874年)、生活苦にあえぐ旧会津藩士300名を率いて警視庁に奉職し一等大警部となった。明治10年当時、東京麹町の警察署長をしていたが、豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として従軍を命じられた。
 そして明治10年(1877年)3月18日、南阿蘇で薩摩軍に銃撃されて戦死する。47歳だった。おそらく死に場所を探していた官兵衛にとって、天皇のために阿蘇で討ち死にすることが、朝敵の汚名を着せられた会津の汚名を晴らすと考えたのかもしれない。搦め手の豊後街道から熊本城救援に向かった官兵衛たちと、同時進行で南下していた政府軍は、この2日後、あの運命の田原坂で、北上する薩摩軍とぶつかる。
 大分市護国神社には、西南戦争で戦没した警察官の墓地があり、官兵衛や多くの会津藩士の墓地もここにあるが、知る人は少ない。