75 斑鳩寺三重塔(兵庫県揖保郡太子町)

斑鳩寺三重塔(兵庫県揖保郡太子町)

 斑鳩寺は、太子町鵤にある。「鵤」は、「斑鳩」と同じく「いかるが」と読む。
 「鵤」とは、「イカル」というくちばしが角のように硬い鳥の名である。地名に転じて、「いかるが」と読ませている。
 推古14年(606年)、聖徳太子推古天皇勝鬘経法華経などを講じ、感銘を受けた推古天皇聖徳太子播磨国損保の水田を与え、聖徳太子はこの地を斑鳩荘と名付け、仏法興隆のため法隆寺に寄進した。
 平安時代になって、この地は法隆寺の荘園、法隆寺播磨国鵤荘(いかるがのしょう)へと発展し、その中心に荘園経営の中核的存在として、政所とともに奈良の法隆寺の別院として斑鳩寺が建立された。
 往古には七堂伽藍、数十の坊庵が甍をならべ壮麗を極めたが、天文10年(1541年)、赤松、山名の争乱の戦禍を被り消失した。後に、播磨を地盤とする赤松氏等が発願し、徐々に復興していった。
 斑鳩寺は、創建から約1000年間、大和の法隆寺の別院(支院)であったが、江戸時代の再建の際に天台宗となり、今なお、お太子さんとして広く信仰を集めている。
 境内の聖徳殿には、聖徳太子の髪の毛が植えられている聖徳太子十六歳像があり、昔から親王皇家から寄進された衣を羽織っている。現在の着衣は、昭和37年(1962年)に高松宮宣仁親王から寄進されたもの。等身大の聖徳太子像は生きて、そこに立っているように感じられ、斑鳩寺が聖徳太子によって建立されたお寺であることを再認識させる。
 聖徳殿に対峙するように三重塔が建っている。当初の塔は天文10年(1541年)の争乱で焼失し、現在の塔は、永禄8年(1565年)に、赤松政秀の発願で再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。本瓦葺、高さ 24.85m、相輪は美しく、初層の手挟(たばさみ)には人物らしい彫り物が施され、塔の四隅の尾垂木上には、各層ごとに異なった手挟を載せている。輪柱には、太子伝来の仏舎利が納められているという。
 この太子町には、宮本武蔵公園があり、生誕地の碑が立っている。
 吉川英治によって、「作州牢人宮本武蔵」と描かれ、作州が誕生の地と思われているが、剣豪宮本武蔵の誕生の地については、「作州大原」のほか「播州高砂」、「播州太子」、の3つ有力な説があるとのことである。
 この揖保郡太子町説というのは、何よりも武蔵自身が書いた書・五輪書の序文に、『時寛永20年10月上旬のころ、生国播磨の武士新免武蔵守、藤原の玄信・・・』と書かれているのをはじめ、宝暦12年(1762年)平野庸修の書いた地誌播磨鑑に、武蔵を「揖東郡鵤ノ庄宮本村(太子町宮本)ノ産ナル」と明記していることから、少なくとも播磨の国、つまり揖保郡太子町か高砂市米田町かのいずれかである可能性が極めて高いといわれている。
 岡山県美作市には、市内を走る智頭急行智頭線に平成6年(1994年)12月に開業した「宮本武蔵駅」があり、また宮本武蔵をモチーフとした「むさっち」を観光PRキャラクターとするなど、武蔵生誕の地であることを観光PR等で積極的に活かしている。
 世間的な常識は、その宣伝力の大きさによって作られていく。中国の圧倒的な宣伝力によって、尖閣諸島もいつか中国領土にされてしまう危険をはらんでいる。