100 瑠璃光寺五重塔(山口県山口市)


瑠璃光寺五重塔山口県山口市 
 瑠璃光寺五重塔は、戦国時代の下克上の嵐が吹きすさぶ、戦乱の世をその目で見てきた塔である。
 ここには、室町時代大内氏25代の大内義弘が建立した香積寺があった。
 義弘は、応永6年(1399年)に応永の乱を起こし、足利義満に敗れて泉州境で戦死する。義弘の弟、大内盛見が兄を弔うために、ここに五重塔の建設を開始した。しかし、盛見自身も九州の少弐氏・大友氏との戦いで永享3年(1431年)に戦死する。五重塔は、その10年後、嘉吉2年(1442年)に完成した。
 大内氏重臣陶氏の7代当主陶弘房は、大内政弘に従い応仁の乱に戦う。文明元年(1468年)、乱最大の激戦となった京都相国寺の戦いで討ち死にしてしまう。弘房の夫人が、夫を弔うために文明3年(1471年)に山口の奥地仁保に瑠璃光寺を建立する。当初は安養寺と呼ばれたが、明応元年(1492年)に瑠璃光寺と改められた。
 天文20年(1551年)になって、大内氏は、重臣陶晴賢の謀反により、31代義隆をもって断絶。陶氏はまた毛利元就によって滅ばされる。
 江戸幕府成立後、毛利氏は萩へ遷され、毛利輝元は、慶長9年(1604年)に香積寺を萩に移す。五重塔はそのまま残されていたが、元和2年(1616年)、萩にいよいよ移されようとする。この移築計画に対し住民から反対運動が起こり、住民運動によって五重塔は残された。しかし、五重塔は、その後84年間、守る寺もなく、田圃の中にポツンと立っていた。
 元禄3年(1690年)になって、仁保の瑠璃光寺が香積寺跡地に移転してきた。これが現在の瑠璃光寺であり、瑠璃光寺五重塔の誕生である。
 高さ31.2メートル、屋根は檜皮葺、二層にのみ勾欄がつく。建築様式は和様であるが、勾欄の4隅の柱が尖る逆蓮頭、また初層内の須弥壇が円形など、一部に禅宗様が採り入れられている。
 塔は、香山公園と呼ばれ桜や梅の名所となっている広々とした庭園内に立つ。背景には山がせまり、桜や紅葉、雪景色に映える。年間を通じライトアップされ、優美、繊細な姿が夜空に浮き上がる。
 大内氏は、大陸と盛んな貿易を行い、「西の京」と呼ばれるほどの一大文化を築いた。瑠璃光寺は、その全盛期の文化を伝える寺院であり、また五重塔は、大内文化の最高傑作であり、京都の醍醐寺、奈良の法隆寺五重塔と並び日本三名塔と呼ばれるが、その名に恥じない美しさである。 
 この塔の美しさに心を打たれ、熱病の如くに取り付かれたのが当時70歳にならんとした作家久木(ひさぎ)綾子氏である。
 久木氏は、初めてこの塔を仰ぎ見た時に「あの世が透けて見える」と思い,かつ「この世とあの世の堺に立つ結界に思えた。」という。そこで、当時その周辺に生きていた人物像を中心に小説としてまとめることを思い立ったという。
 以来、取材のために宮大工に弟子入りし、またパソコン教室に通い、取材に約14年、執筆に4年の歳月を費やし「見残しの塔-周防国五重塔縁起」を書き上げた。久木氏89歳の作家デビューである。
 91歳となって、国宝羽黒山五重塔の魅力に圧倒され、国宝建築に隠された秘密と塔に携わった人々、そして山伏たちの生き様を描く、『禊の塔』〜羽黒山五重塔仄聞(そくぶん)〜を執筆。
「人間、何か新しいことを始めるのに遅すぎるなんて事はないのですねっ!」久木氏の言葉である。