97 筑紫清水寺三重塔(福岡県みやま市)

筑紫清水寺三重塔(福岡県みやま市) 
 瀬高の駅を降りると、目の前に「卑弥呼の里」と書かれた看板が立っている。
 今では、みやま市瀬高町であるが、合併前は、山門(やまと)郡瀬高町である。
 瀬高町は、新井白石が、「外国之事調書」の中で、「邪馬台国」を筑後国山門郡に比定して以来、邪馬台国論争のなかで、邪馬台国九州説の有力候補地の一つとなっている。
 瀬高町を「邪馬台国=山門郡説」とする根拠の一つが、「女山神籠石」(ぞやまこうごいし)である。女山(古代「女王山」と云われた)には、標高195mの山腹をぬって、全長3kmにも及ぶ列石「女山神籠石」があり、これは、卑弥呼に関係した遺跡ではないかといわれている。周辺では旧石器も採掘され、縄文・弥生土器も出土しており、また三角縁神獣鏡が3面出ている前方後円墳の「車塚古墳」にも近い。このほかにも周辺には古墳や遺跡などが数多くある。
 位置的にも、末廬国、伊都国、奴国、不弥国の放射線状の中心軸にあるし、また、筑後川を利用して有明海から船で外海に出ることも容易だ。邪馬台国=山門郡とすれば、狗奴国はその南にあったことになり、熊襲=熊本にも合致するというわけである。さらに、倭人伝の「女王国より以北」には、特に「一大率」を置いて、常に諸国を検察しているという状況にも合致する。しかし「邪馬台国山門説」の弱点は、吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡のような、弥生時代の大規模な遺跡が未だ発見されていないことである。
 今、瀬高町は、久留米市の南、矢部川のほとりに開けた静かな町である。以前はみかん栽培が盛んだったが、いまでは「なす」と「セロリ」の日本有数の産地として知られ、ビニールハウスが連なる、のんびりした田園風景が広がっている。
 その田園風景を見降ろす清水山の山中に、清水寺(きよみずでら)はある。
 清水寺は、天台宗の寺院。山号は本吉山。院号は普門院。本尊は千手観音。
 寺伝によれば、平安時代初期の大同元年(806年)、唐から帰国してまもない最澄伝教大師)は、1羽の雉の導きで清水寺のある山に分け入り、合歓(ねむ)の霊木を見つけたという。最澄は、この合歓の立木を刻んで2体の千手観音を作り、うち1体を京都の清水寺に安置。もう1体を安置するため、堂をこの地に創建した。これが寺の起源であるという。
 本殿の手前を右に登ると、三重塔がある。昭和41年に全面補修され、彩も鮮やかである。 全体にずんぐりしたボリューム感のある造りである。塔は、文政五年(1822年)、柳川藩主立花鑑賞が、領国・近国の信者に勧進して建てたもので、柳川大工 宗吉平衛が、大阪四天王寺五重塔を手本に14年の年月をかけ天保7年(1836年)に完成した。本瓦葺、総高約26.5メートル、福岡県有形文化財
 瀬高には、最澄を案内した雉にちなんだ郷土玩具雉子車(きじぐるま)がある。
 雉子車は、家内安全等のお守りにされるだけでなく、幼児が雉子車をひっぱって遊んだり、大きい雉子車に乗ったりして遊んだそうである。瀬高から程近い柳川の出身である北原白秋に、次の歌がある。
 雉子車 雉子は啼かねど 日もすがら 父母恋ひし 雉子の尾ぐるま
 雉子ぐるま 子の雉子のせて 走りけり 幼児(おさなご)われは 曳きて遊びし
 父恋ひし 母恋ひしてふ 子のきじは 赤とあをもて 染められにけり