96 興願寺三重塔(四国中央市)

興願寺三重塔(四国中央市
 種田山頭火は、死ぬ1年ほど前、愛媛から入って四国遍路の旅を行く。それは死に場所を求めての旅だともいわれている。四国遍路は放浪の旅をするのに打って付けだった。
 その最後の四国遍路の途上、昭和14年(1989年)10月14日、興願寺に一泊して次の二句を詠む。
  ゆふやみ、御佛はかがやいてしづかな
  水かとぼしいといふ風呂のあつさは
 普門院摩尼山興願寺は、承応元年(1652年)高野山快順上人による開基といわれる。真言宗大覚寺派別格本山である。
 興願寺三重塔は、昭和34年(1959年)に、徳島県阿南市に所在する、第21番札所太龍寺から移建された。太龍寺の三重塔は、貞享元年(1684年)に建立されたものだが、老朽化のため荒廃し、両寺の住職が同窓親友であった縁で、太龍寺から昭和28年から昭和34年に家大工(やだいく)藤川 昇氏によって移築された。 
 藤川氏は、元来の器用さと寺社建築への興味が講じ寺社の建築を行っていた。興願寺の三重塔の移築では設計図などはなく、ベニヤ板に書いた簡単な図面での作業だったようであるが、建立当初の姿がほぼ再現されていると考えられている。
 三重塔そのものは、興願寺横にある幼稚園の敷地内に建っている。 外からでも確認でき、様々な装飾を施された立派な三重塔である。本瓦葺、高さ 約20m、平成16年に県指定有形文化財(建造物)の指定を受けている。
 三重塔の一階は三間四方で、内部に四天柱を立て、床を張り、廻縁を設けている。。心柱は一階天井で止めて一階内部に下ろさないという、中世以来の典型的な塔婆の形式を示している。塔の心柱は、梁から鎖で吊され、一階の天井から30ミリほど浮いている。
 この三重塔は、江戸時代の建立の割には各重の低減率が著しく大きく、古式な姿を見せている。細部は和様を基調とするが、各重に用いられている三手先の組物には、唐様の尾垂木を入れており、江戸時代らしい様式の混合を見せている。
 昭和の移建時には損傷が著しかったようで、初重の廻縁、連子窓、隅柱一本、二重及び三重の廻縁と腰組、各重の化粧垂木全部と組物の一部が取り替えられている。また、三重の小屋組材をはじめ、内部の構造材にも昭和材が混入している。
 種田山頭火は、山口県生れで、本名は正一。早稲田大学を中退。荻原井泉水に師事し、俳誌『層雲』に俳句を発表した。のち尾崎放哉に傾倒する。大正13年仏門に入り、庵を結び、また一笠一杖の乞食行脚で各地を遍歴し、禅味ある自由律の独自な句を残した。友人大山澄太によって遺稿集『愚を守る』『あの山越えて』が出された。昭和15年(1940年) 、58才で歿する。
 山頭火の生き様が死後人々に知られるにつれ、彼の言う「生活を前書きにした」句の人気はどんどん高まり、1970年代前半は17ヶ所だった句碑が、1990年代初頭に150ヶ所を数え、2006年には500ヶ所を超えているという。個人の文学碑の数としては松尾芭蕉を別格として山頭火が一番という。故郷の防府には生家跡が残り、市内だけで句碑が81基もあるとのこと。
 山頭火善通寺で詠んだ句、私の好きな句である。
  塔をめあてにまっすぐまゐる