98 豊前国分寺三重塔(福岡県京都郡みやこ町)

豊前国分寺三重塔(福岡県京都郡みやこ町)
 金光明山豊前国分寺は、京都郡みやこ町にある。
 京都郡は、「みやこぐん」と読む。豊前国国府京都郡みやこ町豊津地区にあったことによる。
 幕末には、高杉晋作率いる長州藩に敗退した小倉藩が香春に逃亡。のち豊津に藩庁を移して豊津藩に。廃藩置県で豊津県となった。みやこ町豊津は、元県庁所在地なのである。
 慶応2年(1866年)6月、第二次長州征伐。幕府艦隊による周防大島への砲撃に始まり、芸州口、石州口、小倉口と次々に戦いが始まる。その時、小倉口では、大島口から戻った高杉晋作が指揮をとり、 幕府への忠誠心が強い小倉藩との戦いが繰り広げられた。 途中、坂本龍馬率いる海援隊の応援もあり、小倉城陥落という形で 長州藩の勝利で幕を閉じた。
 小倉口の戦いで大きな力を発揮した高杉晋作は、この年4月に結核で病没する。 
 小倉藩は、大政奉還後、新政府軍に恭順し、慶応4年(1868年)には長州軍とともに奥羽出兵を行う。明治2年(1869年)、藩を再建すべく藩庁を豊津に移し豊津藩と改称し、明治4年(1871年)の廃藩置県を迎える。明治4年7月、豊津藩は豊津県となり、のちに小倉県を経て福岡県に編入された。
 豊前国分寺は、天平勝宝8年(756年)頃、主要な建物が完成したと考えられている。その後、平安時代にかけて盛んに活動を続けていた諸国の国分寺も、鎌倉時代以降多くが衰退していく。しかし、豊前国分寺は、平安時代天台宗の勢力下に入り、鎌倉・室町時代にも変わらず法灯をともし続けた。
 しかし、天正年間(1573年〜1592年)初期に戦国大名大友氏の戦火にあい、主要建物は全て焼失したと伝えられている。
 その後天正年間中には、いち早く同地に草庵が建てられ、本尊薬師如来が造仏安置された。本格的な再建は、江戸時代以降、小笠原藩の援助を受けて当時の歴代住職の努力によって進む。
 現在敷地に残る建物のうち、本堂は、寛文6年(1666年)、鐘楼門は、貞享元年(1684年)に建立された。
 戦火による焼失後、塔が再建されたのは、明治になってからである。住職宮本孝梁師の発願により、明治21年(1888年)に着工し、28年完成、29年1月に落慶法要が行われた。国分寺の塔は、本来七重塔であるが三重塔とし、その位置も、当初の塔は鐘楼門を挟んで東側と推定されているが、その反対側に建設された。
 しかし、55年後の昭和27年(1952年)、落雷のため大破し、40年に修理。その後老朽化が進み、昭和60年から62年に、豊津町民や周辺市町村の企業、団体の寄付を得て、根本的な解体修理が実施された。
 修理にあたっては、明治建立時の忠実な再現に努めた。その結果、三重塔と多宝塔とを折衷した特異な様式の塔として建設されたため、非常に重厚感がある。建物の高さは約23.5m、三重の塔としては、奈良法起寺に継ぐ大きさである。心柱は全長23m、根元60cm角の杉材の一本物で、屋根の瓦は発掘調査で出土した大宰府系を復元している。
 昭和32年、塔は、豊津に国府国分寺が設置され、豊前の政治文化の中心であった往古を象徴するものとして、福岡県の有形文化財に指定された。
 福岡県民でも、同じ京都郡にある「自動車の町」苅田町(かんだまち)は知っているが、みやこ町を知らない人が多い。福岡県のまさに秘境である。住民は、自嘲的に「福岡と大分の狭間に住んでいる」と話すという。