100 瑠璃光寺五重塔(山口県山口市)


瑠璃光寺五重塔山口県山口市 
 瑠璃光寺五重塔は、戦国時代の下克上の嵐が吹きすさぶ、戦乱の世をその目で見てきた塔である。
 ここには、室町時代大内氏25代の大内義弘が建立した香積寺があった。
 義弘は、応永6年(1399年)に応永の乱を起こし、足利義満に敗れて泉州境で戦死する。義弘の弟、大内盛見が兄を弔うために、ここに五重塔の建設を開始した。しかし、盛見自身も九州の少弐氏・大友氏との戦いで永享3年(1431年)に戦死する。五重塔は、その10年後、嘉吉2年(1442年)に完成した。
 大内氏重臣陶氏の7代当主陶弘房は、大内政弘に従い応仁の乱に戦う。文明元年(1468年)、乱最大の激戦となった京都相国寺の戦いで討ち死にしてしまう。弘房の夫人が、夫を弔うために文明3年(1471年)に山口の奥地仁保に瑠璃光寺を建立する。当初は安養寺と呼ばれたが、明応元年(1492年)に瑠璃光寺と改められた。
 天文20年(1551年)になって、大内氏は、重臣陶晴賢の謀反により、31代義隆をもって断絶。陶氏はまた毛利元就によって滅ばされる。
 江戸幕府成立後、毛利氏は萩へ遷され、毛利輝元は、慶長9年(1604年)に香積寺を萩に移す。五重塔はそのまま残されていたが、元和2年(1616年)、萩にいよいよ移されようとする。この移築計画に対し住民から反対運動が起こり、住民運動によって五重塔は残された。しかし、五重塔は、その後84年間、守る寺もなく、田圃の中にポツンと立っていた。
 元禄3年(1690年)になって、仁保の瑠璃光寺が香積寺跡地に移転してきた。これが現在の瑠璃光寺であり、瑠璃光寺五重塔の誕生である。
 高さ31.2メートル、屋根は檜皮葺、二層にのみ勾欄がつく。建築様式は和様であるが、勾欄の4隅の柱が尖る逆蓮頭、また初層内の須弥壇が円形など、一部に禅宗様が採り入れられている。
 塔は、香山公園と呼ばれ桜や梅の名所となっている広々とした庭園内に立つ。背景には山がせまり、桜や紅葉、雪景色に映える。年間を通じライトアップされ、優美、繊細な姿が夜空に浮き上がる。
 大内氏は、大陸と盛んな貿易を行い、「西の京」と呼ばれるほどの一大文化を築いた。瑠璃光寺は、その全盛期の文化を伝える寺院であり、また五重塔は、大内文化の最高傑作であり、京都の醍醐寺、奈良の法隆寺五重塔と並び日本三名塔と呼ばれるが、その名に恥じない美しさである。 
 この塔の美しさに心を打たれ、熱病の如くに取り付かれたのが当時70歳にならんとした作家久木(ひさぎ)綾子氏である。
 久木氏は、初めてこの塔を仰ぎ見た時に「あの世が透けて見える」と思い,かつ「この世とあの世の堺に立つ結界に思えた。」という。そこで、当時その周辺に生きていた人物像を中心に小説としてまとめることを思い立ったという。
 以来、取材のために宮大工に弟子入りし、またパソコン教室に通い、取材に約14年、執筆に4年の歳月を費やし「見残しの塔-周防国五重塔縁起」を書き上げた。久木氏89歳の作家デビューである。
 91歳となって、国宝羽黒山五重塔の魅力に圧倒され、国宝建築に隠された秘密と塔に携わった人々、そして山伏たちの生き様を描く、『禊の塔』〜羽黒山五重塔仄聞(そくぶん)〜を執筆。
「人間、何か新しいことを始めるのに遅すぎるなんて事はないのですねっ!」久木氏の言葉である。 

99 龍源寺三重塔(大分県臼杵市)

龍源寺三重塔(大分県臼杵市
 稲葉家の初代稲葉貞通は、関ケ原の合戦における戦功により、慶長5年(1600年)に美濃国郡上八幡の知行四万石から豊後国海部郡、大野郡、大分郡の三郡内に領地を持つ五万六十石余の臼杵城主となった。稲葉貞通は、あの「頑固一徹」の語源となった稲葉良通(号 一鉄)の子である。
 臼杵藩は、明治4年(1871年)、15代藩主久通の代で廃藩置県を迎えるまでの約270年間、稲葉家により統治され、質素倹約、勤勉といった臼杵人気質の礎を作り上げた。
 龍源寺は、稲葉氏が転封された年、藩主稲葉貞通により創建され、円誉上人により開山。浄土宗総本山知恩院の末寺。
 享保年間(1716年〜36年)に、町内の工匠が聖徳太子像を寄進し、太子を大工の日本の祖として祀り、寺内に小堂が建てられた。
 しかし、江戸時代末となって堂が荒廃し、それを嘆いた住職蒼誉(そうよ)上人が、臼杵の生んだ名工・高橋団内に相談し、高橋団内は、奈良や京都の古寺をめぐり、古い塔の長所をとり入れた理想的な三重塔の図面を引き、それを基に弟子の坂本荘右衛門が監督し、10年の歳月をかけ安政5年(1858年)塔を完成させた。
 総高21.8メートル、九州でも数少ない江戸時代の三重塔である。内部には、聖徳太子の像が安置されていることから太子塔と呼ばれている。江戸時代の作とは思えないほど、優秀な技術が細部まで施されており、塔の軒下には、ユーモラスな『邪鬼(じゃき)』を見つけることができる。大分県重要文化財に指定されている。
 西南の役のとき、龍源寺は、多くの堂宇を消失したが、三重塔と山門は焼失を免れた。大分も、西南戦争の戦場となったのである。
 明治10年(1877年)2月、明治新政府に不満を抱く鹿児島の不平士族が、西郷隆盛を総大将として大規模な反乱を起こした。5月になると、臼杵は良港に恵まれていたために、ここから船で大阪へ攻め込もうとする西郷軍の一隊が、臼杵へも侵入してきた。
 これらの鎮圧にあたったのは、旧臼杵藩士八百名で結成された「臼杵隊」と、東京の警視庁から派遣された、警察の部隊である警視隊である。
 NHKの大河ドラマ『八重の桜』の中で、中村獅童が演じた会津藩家老、佐川官兵衛もその警視隊に加わっていた。
 官兵衛は、維新後の明治7年(1874年)、生活苦にあえぐ旧会津藩士300名を率いて警視庁に奉職し一等大警部となった。明治10年当時、東京麹町の警察署長をしていたが、豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として従軍を命じられた。
 そして明治10年(1877年)3月18日、南阿蘇で薩摩軍に銃撃されて戦死する。47歳だった。おそらく死に場所を探していた官兵衛にとって、天皇のために阿蘇で討ち死にすることが、朝敵の汚名を着せられた会津の汚名を晴らすと考えたのかもしれない。搦め手の豊後街道から熊本城救援に向かった官兵衛たちと、同時進行で南下していた政府軍は、この2日後、あの運命の田原坂で、北上する薩摩軍とぶつかる。
 大分市護国神社には、西南戦争で戦没した警察官の墓地があり、官兵衛や多くの会津藩士の墓地もここにあるが、知る人は少ない。

98 豊前国分寺三重塔(福岡県京都郡みやこ町)

豊前国分寺三重塔(福岡県京都郡みやこ町)
 金光明山豊前国分寺は、京都郡みやこ町にある。
 京都郡は、「みやこぐん」と読む。豊前国国府京都郡みやこ町豊津地区にあったことによる。
 幕末には、高杉晋作率いる長州藩に敗退した小倉藩が香春に逃亡。のち豊津に藩庁を移して豊津藩に。廃藩置県で豊津県となった。みやこ町豊津は、元県庁所在地なのである。
 慶応2年(1866年)6月、第二次長州征伐。幕府艦隊による周防大島への砲撃に始まり、芸州口、石州口、小倉口と次々に戦いが始まる。その時、小倉口では、大島口から戻った高杉晋作が指揮をとり、 幕府への忠誠心が強い小倉藩との戦いが繰り広げられた。 途中、坂本龍馬率いる海援隊の応援もあり、小倉城陥落という形で 長州藩の勝利で幕を閉じた。
 小倉口の戦いで大きな力を発揮した高杉晋作は、この年4月に結核で病没する。 
 小倉藩は、大政奉還後、新政府軍に恭順し、慶応4年(1868年)には長州軍とともに奥羽出兵を行う。明治2年(1869年)、藩を再建すべく藩庁を豊津に移し豊津藩と改称し、明治4年(1871年)の廃藩置県を迎える。明治4年7月、豊津藩は豊津県となり、のちに小倉県を経て福岡県に編入された。
 豊前国分寺は、天平勝宝8年(756年)頃、主要な建物が完成したと考えられている。その後、平安時代にかけて盛んに活動を続けていた諸国の国分寺も、鎌倉時代以降多くが衰退していく。しかし、豊前国分寺は、平安時代天台宗の勢力下に入り、鎌倉・室町時代にも変わらず法灯をともし続けた。
 しかし、天正年間(1573年〜1592年)初期に戦国大名大友氏の戦火にあい、主要建物は全て焼失したと伝えられている。
 その後天正年間中には、いち早く同地に草庵が建てられ、本尊薬師如来が造仏安置された。本格的な再建は、江戸時代以降、小笠原藩の援助を受けて当時の歴代住職の努力によって進む。
 現在敷地に残る建物のうち、本堂は、寛文6年(1666年)、鐘楼門は、貞享元年(1684年)に建立された。
 戦火による焼失後、塔が再建されたのは、明治になってからである。住職宮本孝梁師の発願により、明治21年(1888年)に着工し、28年完成、29年1月に落慶法要が行われた。国分寺の塔は、本来七重塔であるが三重塔とし、その位置も、当初の塔は鐘楼門を挟んで東側と推定されているが、その反対側に建設された。
 しかし、55年後の昭和27年(1952年)、落雷のため大破し、40年に修理。その後老朽化が進み、昭和60年から62年に、豊津町民や周辺市町村の企業、団体の寄付を得て、根本的な解体修理が実施された。
 修理にあたっては、明治建立時の忠実な再現に努めた。その結果、三重塔と多宝塔とを折衷した特異な様式の塔として建設されたため、非常に重厚感がある。建物の高さは約23.5m、三重の塔としては、奈良法起寺に継ぐ大きさである。心柱は全長23m、根元60cm角の杉材の一本物で、屋根の瓦は発掘調査で出土した大宰府系を復元している。
 昭和32年、塔は、豊津に国府国分寺が設置され、豊前の政治文化の中心であった往古を象徴するものとして、福岡県の有形文化財に指定された。
 福岡県民でも、同じ京都郡にある「自動車の町」苅田町(かんだまち)は知っているが、みやこ町を知らない人が多い。福岡県のまさに秘境である。住民は、自嘲的に「福岡と大分の狭間に住んでいる」と話すという。

97 筑紫清水寺三重塔(福岡県みやま市)

筑紫清水寺三重塔(福岡県みやま市) 
 瀬高の駅を降りると、目の前に「卑弥呼の里」と書かれた看板が立っている。
 今では、みやま市瀬高町であるが、合併前は、山門(やまと)郡瀬高町である。
 瀬高町は、新井白石が、「外国之事調書」の中で、「邪馬台国」を筑後国山門郡に比定して以来、邪馬台国論争のなかで、邪馬台国九州説の有力候補地の一つとなっている。
 瀬高町を「邪馬台国=山門郡説」とする根拠の一つが、「女山神籠石」(ぞやまこうごいし)である。女山(古代「女王山」と云われた)には、標高195mの山腹をぬって、全長3kmにも及ぶ列石「女山神籠石」があり、これは、卑弥呼に関係した遺跡ではないかといわれている。周辺では旧石器も採掘され、縄文・弥生土器も出土しており、また三角縁神獣鏡が3面出ている前方後円墳の「車塚古墳」にも近い。このほかにも周辺には古墳や遺跡などが数多くある。
 位置的にも、末廬国、伊都国、奴国、不弥国の放射線状の中心軸にあるし、また、筑後川を利用して有明海から船で外海に出ることも容易だ。邪馬台国=山門郡とすれば、狗奴国はその南にあったことになり、熊襲=熊本にも合致するというわけである。さらに、倭人伝の「女王国より以北」には、特に「一大率」を置いて、常に諸国を検察しているという状況にも合致する。しかし「邪馬台国山門説」の弱点は、吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡のような、弥生時代の大規模な遺跡が未だ発見されていないことである。
 今、瀬高町は、久留米市の南、矢部川のほとりに開けた静かな町である。以前はみかん栽培が盛んだったが、いまでは「なす」と「セロリ」の日本有数の産地として知られ、ビニールハウスが連なる、のんびりした田園風景が広がっている。
 その田園風景を見降ろす清水山の山中に、清水寺(きよみずでら)はある。
 清水寺は、天台宗の寺院。山号は本吉山。院号は普門院。本尊は千手観音。
 寺伝によれば、平安時代初期の大同元年(806年)、唐から帰国してまもない最澄伝教大師)は、1羽の雉の導きで清水寺のある山に分け入り、合歓(ねむ)の霊木を見つけたという。最澄は、この合歓の立木を刻んで2体の千手観音を作り、うち1体を京都の清水寺に安置。もう1体を安置するため、堂をこの地に創建した。これが寺の起源であるという。
 本殿の手前を右に登ると、三重塔がある。昭和41年に全面補修され、彩も鮮やかである。 全体にずんぐりしたボリューム感のある造りである。塔は、文政五年(1822年)、柳川藩主立花鑑賞が、領国・近国の信者に勧進して建てたもので、柳川大工 宗吉平衛が、大阪四天王寺五重塔を手本に14年の年月をかけ天保7年(1836年)に完成した。本瓦葺、総高約26.5メートル、福岡県有形文化財
 瀬高には、最澄を案内した雉にちなんだ郷土玩具雉子車(きじぐるま)がある。
 雉子車は、家内安全等のお守りにされるだけでなく、幼児が雉子車をひっぱって遊んだり、大きい雉子車に乗ったりして遊んだそうである。瀬高から程近い柳川の出身である北原白秋に、次の歌がある。
 雉子車 雉子は啼かねど 日もすがら 父母恋ひし 雉子の尾ぐるま
 雉子ぐるま 子の雉子のせて 走りけり 幼児(おさなご)われは 曳きて遊びし
 父恋ひし 母恋ひしてふ 子のきじは 赤とあをもて 染められにけり

96 興願寺三重塔(四国中央市)

興願寺三重塔(四国中央市
 種田山頭火は、死ぬ1年ほど前、愛媛から入って四国遍路の旅を行く。それは死に場所を求めての旅だともいわれている。四国遍路は放浪の旅をするのに打って付けだった。
 その最後の四国遍路の途上、昭和14年(1989年)10月14日、興願寺に一泊して次の二句を詠む。
  ゆふやみ、御佛はかがやいてしづかな
  水かとぼしいといふ風呂のあつさは
 普門院摩尼山興願寺は、承応元年(1652年)高野山快順上人による開基といわれる。真言宗大覚寺派別格本山である。
 興願寺三重塔は、昭和34年(1959年)に、徳島県阿南市に所在する、第21番札所太龍寺から移建された。太龍寺の三重塔は、貞享元年(1684年)に建立されたものだが、老朽化のため荒廃し、両寺の住職が同窓親友であった縁で、太龍寺から昭和28年から昭和34年に家大工(やだいく)藤川 昇氏によって移築された。 
 藤川氏は、元来の器用さと寺社建築への興味が講じ寺社の建築を行っていた。興願寺の三重塔の移築では設計図などはなく、ベニヤ板に書いた簡単な図面での作業だったようであるが、建立当初の姿がほぼ再現されていると考えられている。
 三重塔そのものは、興願寺横にある幼稚園の敷地内に建っている。 外からでも確認でき、様々な装飾を施された立派な三重塔である。本瓦葺、高さ 約20m、平成16年に県指定有形文化財(建造物)の指定を受けている。
 三重塔の一階は三間四方で、内部に四天柱を立て、床を張り、廻縁を設けている。。心柱は一階天井で止めて一階内部に下ろさないという、中世以来の典型的な塔婆の形式を示している。塔の心柱は、梁から鎖で吊され、一階の天井から30ミリほど浮いている。
 この三重塔は、江戸時代の建立の割には各重の低減率が著しく大きく、古式な姿を見せている。細部は和様を基調とするが、各重に用いられている三手先の組物には、唐様の尾垂木を入れており、江戸時代らしい様式の混合を見せている。
 昭和の移建時には損傷が著しかったようで、初重の廻縁、連子窓、隅柱一本、二重及び三重の廻縁と腰組、各重の化粧垂木全部と組物の一部が取り替えられている。また、三重の小屋組材をはじめ、内部の構造材にも昭和材が混入している。
 種田山頭火は、山口県生れで、本名は正一。早稲田大学を中退。荻原井泉水に師事し、俳誌『層雲』に俳句を発表した。のち尾崎放哉に傾倒する。大正13年仏門に入り、庵を結び、また一笠一杖の乞食行脚で各地を遍歴し、禅味ある自由律の独自な句を残した。友人大山澄太によって遺稿集『愚を守る』『あの山越えて』が出された。昭和15年(1940年) 、58才で歿する。
 山頭火の生き様が死後人々に知られるにつれ、彼の言う「生活を前書きにした」句の人気はどんどん高まり、1970年代前半は17ヶ所だった句碑が、1990年代初頭に150ヶ所を数え、2006年には500ヶ所を超えているという。個人の文学碑の数としては松尾芭蕉を別格として山頭火が一番という。故郷の防府には生家跡が残り、市内だけで句碑が81基もあるとのこと。
 山頭火善通寺で詠んだ句、私の好きな句である。
  塔をめあてにまっすぐまゐる

小休止(18) 愛媛・山口・福岡・大分5塔を巡る

小休止(18)愛媛・山口・福岡・大分5塔を巡る

 いよいよ100塔巡りの最後の旅である。
 愛媛県四国中央市山口県山口市、福岡県みやま市、みやこ町、そして大分県臼杵市と、今回は、四国から中国、九州の東部・西部と、行かなくてはならい所が各方面に散らばっていることから、日程づくりに大変苦労した。
 どこから回るのがベストか、飛行機ではどうか、途中フェリーを使ったらどうなるかなどなど。結局最後は、一番、まともなコースとなった。ただし、2泊3日では、ギリギリの旅である。どこかでトラブルがあると、すべてが崩れそうな日程だった。
 あとは、いつ出かけるかである。
 天候が安定し、3日とも晴れまたは曇りの日はなかなか来ない。
 3月になって、やっと15日、16日、17日が3日とも晴れて暖かいとの予報が出た。そこで、あわてて切符を手配し用意を整え、出かける。

3月15日(火)

東京〜岡山〜伊予三島〜興願寺〜伊予三島〜岡山〜新山口
初めからトラブル
 深谷6時7分発に乗るべく、駅に向かう。駅近くに来ると、駅方向から何かけたたましく放送が聞こえる。「早朝の籠原駅火災のため、上下線とも列車の運行が止まっています。回復の見通しは立っていません。」と、聞こえる。駅まで行くと、14、5人が改札前で待っている。10分待っても、駅の放送は、「回復の見通しは立っていません。」と、同じことしか繰り返さない。業を煮やして、駅員に聞いてみる。「回復の見通しは、1時間レベルの話か、2時間レベルの話か、それとも半日レベルの話なのか、どうなのか。」と、聞いてみても、答えは、「回復の見通しはまったくわかりません。」の答え。「代行の予定はあるのか。」「まだ用意されていません。熊谷まで行けば、新幹線に振替で乗れます。」「では、どうやって熊谷まで行くのか。」「熊谷までの代行バスは、まだ用意ができていません。」
自宅から出直す
 埒があかないので、一度家に戻り、秩父線と新幹線のダイヤを調べる。休日クラブの割引の効く「特急ひかり」から割引対象外「特急のぞみ」に代えれば何とか予定どおりいけそうだった。費用は余計にかかるがやむを得ない。妻に秩父線武川駅に送ってもらう。熊谷で振替乗車券をもらい、新幹線ホームに。新幹線も意外とスムーズに乗れる。振替は、あくまで熊谷・大宮間だけ。東京駅の精算窓口は長蛇の列。これでは間に合わなくなってしまう。近くにいた駅員に「これじゃ間に合わない。早くしてくれ。」「すみません。すみません。」、列の整理に5人も6人も駅員が出ている。列の整理よりも、早く並んだ乗客を流すことが必要なのに、「精算の必要な方は、こちらに並んでください。」と、一所懸命、列の整理をしている。
ギリギリで間に合う
 精算後、JR東海の当日券の窓口で「ひかり」から「のぞみ」への変更をお願いする。
 岡山での「特急しおかぜ11号」への乗り換えが間に合うか聞いてみたところ、9時10分発の「のぞみ19号」で岡山に12:27に到着するとのこと。「特急しおかぜ」発射の8分前に岡山に到着する。ギリギリセーフである。
 旅の出だしからつまづいた最終回。さて、あとは何が待っているのだろうか。
伊予三島に予定どおり到着
 伊予三島駅には、予定どおりに到着。興願寺へと向かう。駅通りから右に曲がると商店街。今日は、お休みなのか、閉店したのか、ほとんどのお店のシャッターが下りている。7、8分も歩くと、塔が見えてきた。三重塔は、幼稚園の中に取り込まれてしまっている。残念ながら、柵越えにしか拝めない。
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 午後でもあり、園児もいない。保母さんもいない。誰もいない。柵越えに写真を撮る。
 興願寺は、山頭火が2泊したお寺である。句碑が意外と新しいのでびっくり。

人気の「特急さくら」で新山口
 伊予三島から岡山に戻り、新幹線「さくら565号鹿児島行き」で新山口へ行く。
 「さくら」はさすがにほぼ満員。隣の席も降りて空いたと思ったら、すぐ次の方が来て座った。隣の客に「『さくら』は客が多いですね」と言ったら、「『さくら』は、人気がありますから」との返事。「さくら」の指定席は、「のぞみ」と違って、横4列でひじ掛けの幅も広く、全体にゆったりしている。そして、休日クラブの割引の対象である。人気があるわけである。

新山口

3月16日(水)
 
新山口〜山口〜瑠璃光寺〜山口〜新山口〜博多〜鳥栖〜瀬高〜清水寺〜瀬高〜久留米〜小倉〜行橋〜豊前国分寺〜行橋
山口駅で遅れそうに
 8時30分に、瑠璃光寺。もう団体客が来ている。さすが瑠璃光寺は有名である。観光客が早朝にもかかわらず後から後から来る。写真の絶好ポイントでは団体客が記念写真を撮っている。隙間を縫いながら五重塔の写真を撮る。

 御朱印をお願いに行ったら、すぐに電話がかかってくる。坊さんも忙しそう。電話でしゃべりながら、御朱印を書き、手で300円と示し、ポンと朱印帳を投げるように渡す。ご利益もなにもないが、ありがたくお受けする。
 そんなこんなで、多少時間を使ってしまったのか、駅までの時間が厳しくなってしまった。最後は、駆けって駅に戻る。ホームにはすでに列車が止まっている。乗ろうとして、いくらボタンを押してもドアは開かない。運転手が顔を出し。「ドアを開けるから待ってください。」という。
 もうドアは、閉められていたらしい。あぶない、あぶないやっとのことで乗り込み出発。
鳥栖を経て瀬高へ
 新山口から「のぞみ」に乗り、博多へ。博多から特急かもめに乗る。かもめの指定席は、重役席並みにレザー張り、JR九州はさすがである。素晴らしい列車をそろえている。あっという間に鳥栖へ。鳥栖は、サガン鳥栖フランチャイズ、ホーム球場のベストアメニティスタジアムは、駅の目の前である。



卑弥呼の里 瀬高へ
 瀬高は、思っていたより大きな町である。ホームには、「卑弥呼の里せたか」と書いてある。駅前広場にも卑弥呼をイメージしたモニュメントが立っている。


 駅から清水寺の旧参道の入り口にある地蔵院までタクシーに乗る。ドライバーは年配の女性。昔は急行が止まったので、客も結構あったが、急行が止まらなくなってからは、まったく客がいなくなったとのこと。ほとんどは自家用車、清水寺の桜が咲くころは、観光で来る客も多いが、ほとんどバスで来てしまうので、タクシーには乗ってくれない。「帰りも迎えに来ますよ。」と、フリーダイヤルの書かれたカードをくれた。
いよいよ清水寺
 旧参道を歩いて行くと、まもなく賑やかな建物、近くに立っていた男性に聞くとお寺とのこと。お寺を過ぎると、急な坂道。坂道が平たんとなったところが、本坊庭園。桜の季節にはたいそうにぎわうらしい。それでも、駐車場には、5、6台の車が止まっている。
 山門を過ぎると、急な階段。一つ登ると、さらに先に続いている。最後の階段を登っていると、子供たちがにぎやかに騒ぐ声が響いている。本堂を回って、塔のほうに行くと大勢の園児たちがお昼を食べている。おとなしく座っている子もいれば、飛び回っている子もいる。そして赤く彩色された三重塔が立っている。そこだけは一段と賑やかである。それにしても、この園児たちは、どうやってここまで来たのだろうか。さっきの階段はこの子たちでは危なくて登れないだろう。
 瀬高に戻る
 帰りも旧参道を歩き、地蔵院からタクシーを呼ぶ。行きに乗った運転手さんは食事に出ていない。違う男性の運転手さんが迎えに来た。話しかけても、あまり話をしたくないみたい。しょうがないので、黙って駅まで送ってもらう。
 瀬高から久留米、小倉、行橋へ
 久留米からは、「特急さくら」。やはりほぼ満員である。小倉からは「特急ソニック」。
 もう4時近くであり、こちらは空席が多い。4時半過ぎに行橋に到着。行橋で太陽バスに乗り、豊前国分寺に。バス停錦町で降り、丁字路を右に曲がると田園が広がる。学校帰りの女の子二人。二人で楽しそうにキャッキャ言いながら、歩いている。私が通りかかったら、「こんにちは」とあいさつをしてくれた。「楽しそうだね。何をしながらお家に帰っているの。」と聞いたら、「石けりしながら、歩いているの。」と、かわいい返事が返ってきた。もう、その先には、国分寺の塔が夕日にキラキラ輝いていた。
 豊前国分寺には、5時到着。もう誰もいない。三重塔は何か変。そう1階部分が、どっしりしすぎである。説明を読むと、三重塔と多宝塔の折衷様式とある。初重の一辺があまりに長い。そのため違和感を感じたようだ。
 豊前国分寺からバス乗り、行橋駅前に戻り、本日の宿へ。万歩計を見たら、今日は、2万2千歩だった。よく歩いたものである。

行橋泊

3月17日(木)

行橋〜臼杵〜龍源寺〜臼杵
ソニックは、女子大生で満員
 朝6時20分に起きて、朝食。宿を7時20分に出て、7時30分発の特急ソニック1号に乗る。この時間から車内はお客でいっぱい。女子大生である。朝から元気な声が車内中響いている。ソニックは大分で「特急にちりん」をつながる。しかし、にちりんには、女子大生は、乗り換えてこない。皆さん、湯布院がお目当てなのだろうか。にちりんの乗客は、がらがらで、乗っているのは、ビジネスマンとあとはおばちゃん。
 臼杵で降りて、駅通りをまもなく左に曲がる。大きな鳥居がある。卯寅稲荷神社と書いてある。次に港町商店街の大きな看板、昔はすいぶんと賑わったのだろう。
古いが活気のある街並みが続く
 大きな交差点を過ぎると、古い町屋が立ち並んでいる。雛巡りののぼりが立ち、家々に古いお雛様が飾られている。人通りも急に多くなってきた。



 店々も開店準備で忙しそう。活気があふれている。さらに歩くと、川にぶつかり、左に曲がる。目の前に塔が飛び込んできた。かなり重厚な塔である。龍源寺である。今日からお彼岸入りなので、花を持ってお墓参りの人がちらほらといる。「おはようございます。」「おはようございます。」と、ご挨拶する。
 今回の旅の最後の塔である。ゆっくり拝んで臼杵へと戻る。

 臼杵〜小倉〜新大阪〜東京 
 途中で娘からメールが入る。「今日の1時過ぎには、高崎線全線開通する。しかし、しばらくは、ダイヤが乱れるかもしれないから、帰りは、熊谷まで、迎えに行ってもいいよ。」
 18時過ぎに東京についたが、高崎線の遅れは、さすがにもうなかった。旅の間、3日間も動いていなかったなんて、信じられない。
深谷に着くころに、「電車で深谷に帰るのは、三日ぶり。」「そうよね、毎日、熊谷から新幹線通勤だったものね。」若い女性二人が、話す言葉が聞こえてきた。毎日大変だったのだ。
 出だしだけのトラブルで済み、あとは何事もなく無事深谷に着いた、最後の旅もつつがなく終えることができ幸いであった。百塔巡りのお陰か、感謝感謝である。

今回の日程表 九州四国中国5塔巡り(最終)

3月15日(火)
東京→8:03/ひかり463号岡山行/12:27→岡山→12:35/特急しおかぜ11号松山行/13:52→伊予三島→13:55/距離:0.735km時間:8分/14:05→興願寺(14:05〜14:40)→14:40/徒歩10分/14:50→伊予三島→14:53/特急しおかぜ20号岡山行/16:11→岡山→16:46/さくら565号鹿児島中央行/17:57→新山口

新山口

3月16日(水)

新山口→8:26/山口線/8:48→山口→9:00/レンタサイクル距離:2.2km時間:10分(山口駅前)福武10台2時間300円 /9:10→瑠璃光寺(9:10〜9:30)→9:30/レンタサイクル10分/9:40→山口→9:41/山口線/10:03→新山口→10:12/新幹線のぞみ99号博多行/10:48→博多→10:55/特急かもめ17号長崎行/11:15→鳥栖→11:19/鹿児島本線快速荒尾行/11:42→瀬高→11:45/タクシー20分/12:00→清水寺(12:00〜13:00)→13:00/距離:5.69km時間:徒歩60分/14:00→瀬高→14:06/鹿児島本線鳥栖行/14:25→久留米→14:48/新幹線さくら558号新大阪行/15:24→小倉→15:41/ソニック33号大分行/15:56→行橋→16:20/バス太陽交通豊津線豊津支所行/16:36→錦町→16:36/徒歩15分/16:50→豊前国分寺(16:50〜17:20)→17:20/徒歩15分/17:35→錦町→17:37/バス駅東口行/17:55→行橋

行橋泊

3月17日(木)
行橋→7:31/特急ソニック1号大分行/8:44→大分→9:10/特急にちりん5号宮崎空港行/9:42臼杵→9:45/徒歩1.39km15分/10:00→龍源寺(10:00〜10:15)→10:15/徒歩1.39km15分/10:30→臼杵→10:37/特急にちりん6号大分行/11:07→大分→11:11/特急ソニック26号博多行/12:37→小倉→13:01/新幹線さくら552号新大阪行/15:24→新大阪→15:30/のぞみ236号東京行/18:03→東京

95 五流尊瀧院三重塔(岡山県倉敷市)

五流尊瀧院三重塔(岡山県倉敷市
 倉敷駅から宇野線に乗ると、茶屋町駅瀬戸大橋線とわかれる。五流尊瀧院は、瀬戸大橋線に乗って、茶屋町駅から二つ目の木見駅で降りる。
 五流尊瀧院は、隣接する熊野神社と、中世に児島山伏の本拠地として強大な勢力を誇った。
 修験道の祖、役小角の5人の弟子義学・義玄・義真・寿玄・芳玄が、奈良時代に小角が朝廷から謀反の疑いで伊豆大島に遠流されたとき、紀伊熊野神社御神体を舟で持ち出し、児島に上陸し、そこに熊野神社を祀った。また、それぞれ、尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院及び伝法院の五流の寺院を建造した。その中で十一面観音を本尊とし、中心的な寺院となったのが、五流尊瀧院である。
 また、紀伊熊野から倉敷の地に、紀州熊野と同様の社殿十二社権現を遷したことから,倉敷の宮は熊野権現と呼ばれた。
 五流尊瀧院には、後鳥羽上皇の代に、承久の乱を避けて桜井宮覚仁親王が、その後に、兄に当たる頼仁親王も、この地に配流され、兄弟一緒に住まわれた。隠岐でなくなった父君、後鳥羽上皇の一周忌供養のために、仁治元年(1240年)、宝塔を建立した。宝塔は、国指定の建造物となっている。
五流尊瀧院は、頼仁親王(冷泉宮)が配流されたことをきっかけに、五流修験(児島五流)が再興され、地域最大の宗教勢力に成長するとともに、児島五流は、社領とその権威を背景とした経済活動による財政基盤と併せて軍事力を蓄えていき、有力な武将が登場することのなかった倉敷地方の中で強大な勢力を誇った。
 頼仁親王は、五流尊瀧院御庵室に27年の幽居の後47歳で亡くなられ、親王墓所は、瀬戸大橋線木見駅から500mのところに緑に包まれた中にある。
 明治時代になって、神仏分離令により、神道の方を熊野神社,仏教の方を五流尊滝院とし、天台系修験道の総本山とし、今においても、盛大な力を持っている。
 三重塔は、五流尊瀧院の境内を探してもどこにもない。現在の五流尊瀧院は、倉敷市立郷内小学校北に隣接しているが、元来は400mほど北の真浄院北側にあり熊野神社と隣接していたと伝えられている。熊野神社に行って初めて三重塔や五流尊瀧院の主流伽藍を見ることができる。
 そのためか、「尊龍院ほか4か院三重塔」として、昭和49年(1974)に岡山県指定の重要文化財となった。本瓦葺で高さは21.5m。三重塔の軒は、一・二層が二軒平行繁垂木、三層は扇垂木として変化を持たせている。棟札により、大工棟梁は邑久郡宿毛村の田淵嘉一兵衛勝繁と知れている。熊野神社別当寺院であった大願寺の湛海和尚によって文政3年(1820)に再建されたものであるが、室町時代の様式を見事に伝えている。
 太平記に登場する忠義桜の伝承で知られている児島高徳は、この寺で生まれた。
 子どもの頃、私の母は、「天勾践を空しうするなかれ、時に范蠡なきにしも非ず」 と、よく歌っていた。当時は、何を歌っているのかわからなかったが、「忠義桜」の歌詞の2番と3番の間に読み込まれた、高徳が桜の幹を削って書き残した漢詩、「天莫空勾践 時非無范蠡」だった。
 この漢詩は、古代中国の故事を例にとり、ここにも貴方をお救いする忠臣がいますよと、隠岐の島に流される後醍醐天皇を慰めたものである。
 子ども心に、楠正成と並んで児島高徳という人は偉い人だと刷り込まれ、物ごころついてから、吉川英治私本太平記を夢中になって読んだものである。