74 一乗寺三重塔(兵庫県加西市)

一乗寺三重塔(兵庫県加西市
 諸国を旅した武蔵は、生涯で60余度の勝負に挑む。武蔵21歳のとき、京都の名門吉岡道場の門をたたく。いわゆる道場破りである。門弟との試合で6人を倒す。その後、当主の清十郎、弟の伝七郎をも相次いで破る。面目をつぶされた吉岡一門は、清十郎の子、又七郎(小説では源次郎)を名目人に立て、弓、鉄砲も携えた70余人の門弟たちで遺恨試合にのぞむ。慶長9年(1605年)の一乗寺下り松の決闘である。
 吉川英治の「宮本武蔵」で有名なこの一乗寺は、京都の一乗寺である。一乗寺は、南北朝時代末に廃寺となり、今は地名として寺の名が残っているだけである。
 今回訪ねた一乗寺は、一乗寺一乗寺でも、兵庫県加西市にある法華山一乗寺である。
 ご詠歌に、「春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙(たえ)なる 法(のり)の華山(はなやま)」と歌われる天台宗の寺院。西国三十三箇所第26番。本尊は聖観音菩薩である。
 寺伝では孝徳天皇の勅願で白雉元年(650年)に創建、開基は天竺僧法道仙人とされる。境内は山深く、春は桜、秋は紅葉の名所としても知られている。
 天竺僧法道仙人は、伝説的人物である。『元亨釈書』等の記述によれば、法道はインドに住んでいたが、紫の雲に乗って中国、百済を経て日本へ飛来、播州賀茂郡兵庫県加西市)に八葉蓮華の形をした霊山を見出したので、そこへ降り立ち、法華経の霊山という意味で「法華山」と号した。法道は神通力で鉢を飛ばし、米などの供物を得ていたため、「空鉢仙人」と呼ばれていた。法道の評判は都へも広まり、白雉元年(650年)、時の帝である孝徳天皇の勅命により法道に建てさせたのが一乗寺であるという。
 一乗寺は、中世、近世には何度かの火災に遭っているが、平安時代の三重塔をはじめとする古建築がよく保存されている。本堂は、姫路藩主本多忠政の寄進により、寛永5年(1628年)に建てられた。
 三重塔は、二重の基壇上に建つ、総高は21.8m。国宝に指定されている。
 加西市文化財資料第3号「加西の文化財」(改訂版)に少し難しい説明ではあるが、次のように記載されている。
 「建立年代は、相輪伏鉢に承安元年(1171年)の刻銘があって、平安時代に遡ることが知られ、年次とともに勧進隆西の名と、時の住持であろうか仁西の名を録している。
 各重とも方三間で、各重の落ちは上重ほど大に、軒高の差と軒出は上重ほど小で、古塔の姿をよくとどめている。相輪の意匠もこれに応じて上代の伝統を濃厚に示し、高さは塔全体の三分の一、見幅も広く、荘重な気格に満ちている。しかも、蟇股や組物、天井、仏壇、九輪など細部の形式に時代の特徴がよくあらわされており、垂木が六支掛となっていること、縁を構えていること、心柱が初重の天井裏から立てられていることなど中世の塔の先駆をなす新しい手法も多く認められる。ことに珍しいのは、三重の屋根にむくり(緩やかな凸面*筆者注)を作っていること、各層の屋根に稚児棟がないことであろう。」
 武蔵の書く独行道に、「我れ神仏を尊んで神仏を恃まず」とあるが、凡人である私は、本堂に上がり、観音菩薩に新しい年の平穏と家族の健康を祈り、ご朱印をいただく。