6 大法寺三重塔(長野県小県郡青木村)


大法寺三重塔(長野県小県郡青木村

 上田市街を抜けて青木村に入ると、「美人多し、脇見注意」の看板とともに、「義民の里 青木村」の大きな看板が立っている。
 青木村は、江戸時代には上田藩の浦野組に属し、地域内には、松本と上田を結ぶ脇街道が通っており、江戸に送られる松本藩の城米もこの街道を通って送られた。標高700メートルをこえ、いちばん奥にある入奈良本村でさえも、必ずしも閉鎖的な山村ではなかった。
 近辺の人びとの間には、いまでも「夕立と騒動は青木から」という言葉が語り継がれている。夫神・子壇に雲がかかったと見る間に、叩きつけるような雷鳴を伴って夕立が平地の村々を襲う。実は雷雨よりももっとおそろしい百姓一揆・打毀しの震源地も、江戸時代を通してこの青木村であった。
 上田藩の領内では百姓一揆が8件あったが、そのうち5件がほかならぬ浦野組、現在の青木村から起っている。
 浦野組に最初に起こった越訴事件は、天和2年(1682年)、藩主は仙石政明のときであった。首謀者、入奈良本村の増田与兵衛は、単身城下に赴き、藩主に庄屋の不正を直訴した。願いは聞き届けられ、村人は救われたが、掟法によって父子共に死罪に処せられた。
 次の越訴事件は下奈良本村と同じ沢筋で、村一つを隔てた隣村の中挟村で、享保6年(1721年推定)に起こった。越訴したのは、組頭の平林新七であった。中挟村の西上の地籍の検地をしきたりを無視して強行しようとしたので、組頭の新七は極力これをやめるように願ったが聞き入れられず、ついにその役人を鎌で斬り殺してしまったという。当然のことながら新七は死刑となったが、西上地籍についてのしきたりも認められ、中挟村に対して年額45俵の減免を仰せ付けられた、というのである。
 浦野組にあったこの二つの越訴事件についての伝承は、いきいきとした形で残っており、しかも二人の義民を祭る祠が現存して、村人に鮮明な影響を今なお与え続けているのである。
 この青木村は、鎌倉時代には浦野庄と呼ばれる荘園で、鎌倉末期には塩田に入った 北条氏の所領となっている。
 北条氏の支配下にあった正慶2年(1333)に大法寺の三重塔が造られた。
 塔は、山腹に点在する伽藍の最も高い地点に位置し、塩田平を見下ろすことのできる丘の中腹にあり、その美しさに思わず振り返るところから「見返りの塔」と名付けられている。その美しさは、初重が特に大きいことにあり、奈良の興福寺三重塔にその類例を見るだけで独特の工法である。大阪四天王寺大工四郎某ほか小番匠7人の作といわれ、国宝に指定されている。
 本堂の裏手には、近代的な青木村郷土美術館が立っている。この美術館は、個人の収集家からの寄附がベースとなっており、小山敬三や伊藤深水などの名画が展示してある。
 また、村内には田沢温泉、沓掛温泉がある。いずれも昔からの伝説の残る名湯である。共同浴場では150円でいかにも温泉らしい温泉を堪能できる。