60 霊山寺三重塔(奈良県奈良市)

霊山寺三重塔(奈良県奈良市

 霊山寺は、多角経営の寺として有名である。
 近鉄奈良線富雄駅から富雄川沿いに南へ3キロ程。矢田丘陵の北東の端に位置する鼻高山。霊山寺はその麓にある。
 観光バスが何台も入る大きな駐車場。1000坪のバラ庭園。バラ園に併設されている西洋風のカフェテラス。温泉、宿泊施設、カラオケが聞こえてきそうな団体客用の大型休憩施設やレクリェーション施設まで完備。昭和36年には当時の金額にして2400万円で金箔張りの金閣を作った。更に昭和52年にはプラチナの箔押が施された白金殿が建立された。タクシー会社も持っているし、極めつけはゴルフ場まである。
 寺伝では、右大臣小野富人(小野妹子の子)は、壬申の乱(672年)に加担したかどで、官を辞し、当地で閑居していた。霊泉を見つけて湯屋を建てそこに薬師三尊を祀った。彼は西洋人のような鼻が高い顔立ちだったのと、薬湯の効能もあったようで、いつしか鼻高仙人と崇められた。
 天平6年(734年)、聖武天皇は、行基に鼻高仙人の地に寺を建立するよう命じた。この寺が創建された時、菩提僊那は、寺の地相がインドの霊鷲山に似ているところから、「霊山寺」とするように聖武天皇に奏上したと言う。
 波羅門僧・菩提僊那は、生没年が704〜760年で、南インドの生まれであるとされている。
 或る時、中国の五台山に祀られている文殊菩薩を慕って中国に渡っていたところ、天平5年(733年)、日本から来た多治比真人広成を大使とする遣唐使と会った。大使や僧・理鏡などによって要請されて、唐僧・道璿や林邑国(現在のベトナム中部にあった国)の僧・仏徹らとともに日本に渡ることになった。
 天平6年(734年)、東の果て、日本を目指し、遣唐使船に乗り込んだ。東渡の海上は決して穏やかではなく、暴風が吹き、波頭も高い状況が続いた。日本に着いたのは、天平8年(736年)5月18日、当時の日本の玄関口だった太宰府に到着した。それから東に上り、同年8月8日、難波(現在の大阪湾周辺)に着いた。 時の聖武天皇は、勅を発して行基等を送って供養させた。この供養に感激した菩提僊那は、行基と和歌を贈答したとも言われ、梵語での会話もなされたと言われる。
 天平勝宝4年(752年)3月、菩提僊那は、行基などの推挙によって奈良東大寺大仏殿で行われた毘盧遮那仏の開眼供養法会に際して、導師に任じられた。
 天平勝宝6年(754年)には、来日した鑑真和上を東大寺に尋ね、来日を迎えたとのこと。ともに異国からやってきた渡来僧同士、どのようなことを語りあったのだろうか。
 三重塔は、本堂から少し離れた小高い丘の上に建っている。総高17.1メートルと、やや小ぶりな桧皮葺の塔である。鎌倉期の純和様式、弘安6・7年(1283・1284)頃の建立と推定され、国の重要文化財に指定されている。三重塔の水煙は、鏡をはめ込んだ非常にめずらしい形である。それほど迫力は感じないが、小ぶりで優しい雰囲気のある塔である。
 三重塔の右奥を登ると、菩提僊那の供養塔、右下に降りると墓所がある。
 霊山寺は、全山が山間に広がり、地形を生かし、緑の中に各堂塔が配置されており、訪れる前に思っていたような多角経営のゴテゴテ感はまったく感じさせなかった。