88 本山寺五重塔(香川県三豊市)

本山寺五重塔香川県三豊市
 「ホンザンジ」ではなく、「モトヤマジ」である。
 大同2年(807年)平城天皇の勅願により、弘法大師が七十番札所として開基。当時は「長福寺」という名で、その後、本山寺と名を改めた。本堂は大師が一夜ほどの短期間にて建立したことから、「一夜建立の寺」という伝説が残っている。
 空海が、唐から沢山の仏具や仏像とともに、密教を持ち帰った年が大同元年(806年)。空海は、20年の約束を2年で帰ってきてしまい、大同2年より2年ほどの間、大宰府にある観世音寺に止住させられているので、大同2年開基は、あくまで伝承か。
 本山寺は、七宝山持宝院本山寺といい、およそ2万平方メートルの広大な境内には国宝の本堂はじめ、仁王門、五重塔、鎮守堂、大師堂、十王堂、赤堂(大日堂)、慰霊堂、鐘楼、客殿などが並び、大寺として栄華を極めた当時を偲ばせる。
 本尊は、頭上に馬頭をいただく観音「馬頭観世音菩薩」で四国霊場では唯一のもの。
 天正年間、長宗我部軍が本堂に侵入の際、住職を刃にかけたところ、脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が退去したため、本堂は兵火を免れたといわれ、この仏は「太刀受けの弥陀」と呼ばれている。
 本山寺は、四国霊場では竹林寺志度寺善通寺と、この本山寺の4ヶ所だけという五重塔があり、予讃線本山駅を出ると、右手遠くに眺めることができる。本山寺のシンボルである。
 大同4年(809年)に建立されたが老朽化し、明治43年(1910年)、住職の頼富実毅(よりとみじっき)が再建。盲目だった実毅は五十九番国分寺を巡礼後、目が見えるようになり、その恩に報いるため堂宇の復興に意欲を燃やした。
 五重塔は、明治29年(1896年)の着工から14年の年月をかけて完成した。近年の調査で、塔の心柱を支える箱から、大量の「経石」がみつかった。参拝者が祈りを込めてお経の一文字を書き、寺に納めた小石である。再建は、多くの信者の喜捨といわれ、当時のものかもしれない。
 礎石から相輪先端までの高さは31・5メートル。和様を基調とした本瓦ぶきで、江戸期までの伝統に忠実な建築法が随所に見られるほか、獅子鼻や龍頭といった装飾が細かに施されている。平成26年1月に市文化財に指定されている。
 この五重塔は、極端に細長い形状をしている。五重塔は、飛鳥時代から江戸時代にかけて新しいものほど、1重から5重まで屋根の大きさの違いが少なくなり、その総高に対する相輪の高さの割合が、小さくなっていると言われている。しかしその結果、江戸時代以降の新しい塔は、法隆寺など古い塔に見られるどっしりとした安定感が無くなってしまっている。
 本山寺五重塔も、建造から100年以上が経過し、塔全体がやや傾くような状態になってしまったため、平成25年11月、建築家や大学教授、寺関係者でつくる整備委員会が立ち上げられ、解体・保存修理に向けて手法などの検討が進められている。整備委は「歴史的、文化的な価値を損なうことなく、次の百年に残せる保存法を検討していきたい」としている。
 地方創生が叫ばれるなか、地域の宝、地域のシンボルを残し、活かす方策も考えて欲しいものである。