61 法起寺三重塔(奈良県生駒郡斑鳩町)

法起寺三重塔(奈良県生駒郡斑鳩町

 法起寺(ほっきじ)三重塔は、現存日本最古の三重塔である。
 法起寺は、別名、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれる。
 創建の由来は、『聖徳太子伝私記』に記録されている法起寺三重塔の露盤銘による。それによると、推古30年(622年)2月、聖徳太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したといわれている。 その後、舒明10年(638年)に金堂を造立し、天武14年 (685年)に宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706年)3月に塔の露盤を作ったとされている。
 近年における境内の発掘調査の結果、前身建物の遺構の一部が確認されており、法起寺の建立以前に岡本宮と見られる宮殿が存在していたことが明らかとなっている。
 奈良時代には、相当栄えた寺であったが、平安時代から法隆寺の指揮下に入り、寺運も徐々に哀微した。鎌倉時代には、講堂や三重塔が修復されている。しかし、室町時代に再び衰え、江戸時代のはじめごろには、三重塔を残すのみであったという。
 その荒廃を憂い、寺僧たちの努力によって、延宝年間(1673年 - 1681年)に三重塔を修復、元禄7年(1694年)に講堂を再建、文久3年(1863年)に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられた。
 昭和47年(1972年)に、三重塔の解体修理に着手し、50年に完成したのに続いて、53年には講堂の修理を行い、57年には重要文化財の十一面観音菩薩像を安置する収蔵庫が新設された。
 かつて斑鳩の地には、ニキロ四方の中に法隆寺中宮寺・法輸寺の四つの寺が建っていた。このうち法隆寺の仏塔だけが五重塔で、他はすべて三重塔であった。三重塔の中で、法起寺の塔のみ創建時の雄姿を伝え、中宮寺の塔は近世以前にすでになく、法輸寺塔も昭和19年7月に焼失し、今あるものは昭和50年に再興されたものである。
 法隆寺五重塔法起寺三重塔は、兄弟分である。
 法隆寺五重塔は、西暦680年頃に建立された。法起寺三重塔は、慶雲3年 (706年)に建立され、本瓦葺、高さ 23.9m、特異な形式の三重塔である薬師寺東塔を除けば、日本最大の三重塔と言われており、国宝に指定されている。
 法起寺三重塔の初層・二層・三層は、法隆寺五重塔の初層・三層・五層の大きさとほぼ等しく、模したものと考えられている。また、塔は、柱間が普通3間であるが、法起寺三重塔の初層・二層の柱間は3間であるが、三層の柱間が2間である。法隆寺五重塔も最上部の五層の柱間が同じく2間である。
 心礎は、法隆寺五重塔中宮寺塔跡の心礎が地中深く据えられているのに対し、法起寺では基壇の上に据えられている。
 この塔は、江戸時代の延宝年間の修理で大きく改造され、この時、三層の柱間も2間から3間に一時変更されていたが、昭和の解体修理の際、部材に残る痕跡を元に、創建当時の形に復元した。二層と三層の高欄(手すり)も解体修理時の復元である。
 奈良斑鳩にありながら、法起寺は、訪れる参拝客も少なく、田んぼや畑に囲まれ、ひっそりとたたずむ。寺から少し離れ、周辺の田園風景やコスモス畑を近景とし、沈みゆく夕陽をバックに三重塔を眺めるのがもっとも美しい。