89 石手寺三重塔(愛媛県松山市)

 石手寺三重塔(愛媛県松山市 石手寺には、表の顔と裏の顔がある。
 国宝の二王門、国の重要文化財には本堂や三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、「建長3年」(1251年)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘が指定されている。それに寺宝を常時展示している宝物館を備え、四国霊場では随一ともいえる豊富な文化財を持つ寺院である。これが、表の顔である。
 本堂の左隣に不思議な面の架かった社がある。その奥に、「マントラ洞」という地下道の入口がある。ここが、裏の石手寺への入口である。マントラ洞内を通って奥の院へ進むと、朽ち果てた意味不明な像の数々。そして一番奥には『マントラ塔』と 呼ばれる黄金の建造物があり、その中に入ると多宝小塔を囲んで数多くの木彫りのトーテムポールのような仏像。
 松山駅に着いたのは4時近く、伊予鉄に乗る。道後温泉駅から、雨の中歩く。子規記念博物館、道後プリンスホテルを通り過ぎて約20分。石手寺の西側から入る。夕暮れ迫り、雨がしきりに降る。薄暗がりにかなり数の水子地蔵が並ぶ。冷気を浴びたようにゾッとする。
 もう5時近いので、遍路もいないし、観光客もいない。阿弥陀堂から、ガタガタと物音がして、何者かが、のそっと出てきた。お堂を閉めるので、掃除をしていた方のようだが、人気のないところで、急に人影があったので、びっくりさせられた。
 熊野山虚空蔵院石手寺は、縁起によると、神亀5年(728年)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野十二社権現を祀り、聖武天皇の勅願所となる。翌年の天平元年行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。
 「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892年)の衛門三郎再来の説話によるとされる。石手寺の最盛期であった平安時代室町時代には、7堂66坊の大寺院であった。その後兵火により焼失し、仁王門・本堂・三重塔は残った。
 今もなお、鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられたとの考証もある。
 三重塔は、鎌倉時代後期のもので、高さ23.88m。棟から中天に伸びて九輪・水煙を支える心柱は、初重の四天柱の頂部に架けられた梁で受けられる。心柱が心礎石に達しないこの構造は平安時代末期に始まり、鎌倉時代の塔に多く用いられた手法である。
 鎌倉時代後期建造の三重塔は、古い仏塔が多くない四国においてはずば抜けて古い歴史を持つ。和様で均整の取れたその塔は、派手さは無いが、鎌倉期の仏塔の特徴をよく示しており、重要文化財でありながら、 国宝クラスの名塔である。
三重塔の前には、「不殺生平和の折鶴」の大きな看板。そしてたくさんの折鶴が飾られている。塔の前に箱が置かれ、折紙が入っている。100円を納め、鶴を折り、箱に入れると、住職筆の短冊が戴ける。
 四国有数の古刹である石手寺が、このような表の顔と裏の顔を持つお寺となったのも、お寺が庶民のお寺として、生きていくための一つの方法なのかもしれない。