23 真禅院三重塔(岐阜県不破郡垂井町)

真禅院三重塔(岐阜県不破郡垂井町

 南総里見八犬伝は、父親と一緒に結城側で戦った里見義実が、死を決意した父親と別れて落ち延びるところから始まる。
 この「南總里見八犬傳巻之一 第一回」に、「両公達は生拘られ、美濃の垂井にて害せらる。俗にいふ結城合戦とはこれ也。」とある。
 両公達とは、足利持氏の遺児春王丸・安王丸のことである。
 結城合戦は、まさに関東の戦国時代の始まり。関東公方足利持氏が室町将軍足利義教と対立。関東管領山内上杉憲実が持氏を戒めたことから、関東武士団が持氏側と憲実側に分裂。幕府は永享10年(1438年)9月持氏討伐を決し、翌年2月持氏は鎌倉永安寺で自刃した。幕府に反感を持った関東武士達は、翌年12年3月、結城氏朝を軸に結集し、持氏の遺児春王丸・安王丸を迎えて結城城に立て籠った。戦闘は翌嘉吉元年4月まで続いたが、氏朝は討死、春王丸・安王丸は京へ護送中、義教の命を受けた長尾実景によって美濃の垂井で殺された。
 この春王安王の墓が、JR東海道本線垂井駅から西に1.2km、15分ほど歩いたところにある。
 垂井の宿は、中山道の宿駅であると同時に、東海道の熱田宿を結ぶ脇街道美濃路の起点でもあり、交通の要所として発展した。天保14年(1843年)、垂井宿総家数315軒、商工業者が多く軒を並べていたと記録されている。
 春王安王の墓からさらに1.5km、約20分歩くと真禅院がある。真禅院は、山号は朝倉山。山号にちなみ朝倉山真禅院、朝倉寺、または単に朝倉山とも呼ばれている。 かつて南宮大社の僧坊であった。
 関ヶ原合戦時、南宮山には西軍の毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家長宗我部盛親ら27,900人が陣取り、この合戦時に南宮大社及び神宮寺の諸堂社は、兵火にかかり失われる。合戦後、南宮権現執行が同じ天台宗の僧である東叡山寛永寺住職天海大僧正等に再建を嘆願し、戦火より40年後に三代将軍徳川家光の代に、ようやく造営の運びとなった。
 起工に先立ち、寛永17年(1640年)8月に幕府大工頭木原杢助の立会いの下に商工業者・諸職人を集めて見積・入札が行われる。入札を行った職種は、大工をはじめとして木引・手伝・鍛冶・檜皮師・瓦師・石工・塗師・飾師・彩色・畳師・指物師・材木商など。
 寛永17年(1640年)9月19日起工、寛永19年(1642年)9月11日に再興され、翌9月12日に遷宮式が執行された。春日局が家光の代参で来た。
 三重塔のみは京都の石材商 久保権兵衛の一括請負であり、1年後の寛永20年(1643年)7月に落成した。
 明治維新を迎え、神仏分離、廃仏棄釈が唱えられるようになり、真禅院は廃寺の危機にさらされる。だが、地域住民の願いにより、現在の朝倉山に三重塔、本地堂などとともに移転した。
 本瓦葺で、高さ25.38m、和様の塔、国重要文化財。相輪を長くし、赤く彩色され、すっきりとした姿、形である。
 三重塔の多くは、木立等に囲まれ、遠望が利かない場合が多いが、真禅院三重塔は、濃尾平野を前景として、塔の全体を遠くから眺めることができる。紅葉に彩られつつある朝倉山に三重塔が浮かぶ。春になると、桜の中に埋まる三重塔を楽しむことができるという。