63 百済寺三重塔(奈良県北葛城郡広陵町)

百済寺三重塔(奈良県北葛城郡広陵町

 広陵町百済集落にある百済寺(くだらじ)は、室町時代建立の三重塔と小さな本堂が残されているが、現在は無住である。隣接する春日若宮神社によって管理されている。
 百済寺の創建の時期・経緯等は明らかでない。かつては『日本書紀舒明天皇11年(639年)7月条に、舒明天皇が「今年、大宮と大寺を造る」と詔し、百済川のほとりを宮の地とした旨の記述があることから、いわゆる「百済大寺」(南都七大寺の1つである大安寺の前身)が、この寺と言われた。
 しかし、百済寺周辺からは、その時代の古瓦は出土せず、官寺らしき寺跡もなく、当時の政治の中心であった飛鳥とも地理的に離れており、この百済寺は、「百済大寺」ではないと考えられるようになっている。1997年以降、桜井市吉備の吉備池廃寺の発掘が進むにつれ、伽藍の規模、出土遺物の年代等から、この吉備池廃寺こそが「百済大寺」であるといわれている。
 百済は、古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年- 660年)である。日本語における呼称「くだら」の由来は不明であるが、古くは「くたら」と清んで発音していたようである。
 2007年にフジテレビで放映され、現在でもBS11で再放送されている韓国ドラマ「朱蒙」の主人公朱蒙は、高句麗を建国するが、百済は、その朱蒙の第3子温祚によって、前漢の鴻嘉3年(前18年)、建国されたとされたとの説話を持ち、高句麗百済は近い関係にある。
 西暦660年に百済が滅亡し、663年に白村江の戦いで、倭国百済遺民の連合軍が、唐・新羅連合軍に敗れる。668年には高句麗が滅亡する。さらに新羅が唐の勢力を追放して朝鮮半島を統一した。大量の百済高句麗の王侯貴族や知識人や職人達が日本列島に亡命して来る。その数、何千人とも何十万人とも言われる。
 高句麗および百済と、現在の韓国人の直接の祖先である新羅とは、そもそも話す言葉がまったく違った。それは方言のレベルなどではなく、完全に異なる言語だった。ちなみに同じ扶余系である高句麗百済は、ほとんど同じだったらしい。
 滅亡した高句麗語が、もっとも似ているとされる言語は、韓国語(新羅語)ではなく、日本語らしい。今、韓国では、百済は「ペクチュ」であり、「くたら」若しくは「くだら」は、扶余系の読み方なのかもしれない。
 三重塔は、室町時代中期・文明12年(1480年)に建立されてもので、高さ22.97m、本瓦葺、 国の重要文化財に指定されている。相輪は、江戸時代の延宝3年(1675年)に作り直されたものであるが、江戸時代に作られたものとしては長い。
 塔は、明治時代に、甚だしく破損し倒壊寸前の有様であった。昭和5年の解体修理により現在の美しい姿となった。鎌倉中期頃の「塔」とされていたが、墨書により文明12年と判明した。格調高い「塔」である。
 現存する塔の多くは山中にあるが、この塔のように平野の中に聳えるものは極めて少ない。
 大和平野のほぼ真ん中に遠慮がちに建つ三重塔。妙楽寺(現在の談山神社)から移築され、大織冠(たいしょくかん)と大それた名称で呼ばれる小さな小さな本堂。百済寺は、韓流ブームにも取り残され、観光客もほとんど訪れることがなく、静かな侘しい佇まいである。