64 当麻寺三重塔(奈良県葛城市)

        
    東塔                      西塔
当麻寺三重塔(奈良県葛城市)
 二上山当麻寺(たいまじ)は、大和の二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓にある古刹である。寺の創建は白鳳11年(681年)。もともと三論宗を奉じる寺院だった。弘法大師との縁から真言宗に転じ、さらに鎌倉時代から真言・浄土の二宗が並立する稀有な寺院として現在に至り、境内の塔頭は八カ寺に及ぶ。
 寺院建築に当たって、奈良時代になると伽藍に2基の塔を置くのが、基本的な配置となったが、それが2基とも、創建当時から現存しているのは当麻寺だけである。古塔の愛好家の間では、この2塔の並ぶ風景を訪ねることが一つの悲願である。しかしながら、両塔を同時にとらえることは難しい。また、東塔は、残念ながら、近くに寄ることができず、庭園越しとなってしまい、細部が捉えられなかった。
 いずれも三重塔である。東塔は、法起寺についで日本で二番目に古い三重塔。初重が柱間を3間とするのに対し、二重・三重は2間である。これに対し、西塔は、初重、二重、三重とも3間である。また、屋根上の水煙のデザインが、西塔は通常と変わらないが、東塔のそれは魚の骨のような形をした、変わったデザインである。
 當麻寺は、7世紀末頃に、壬申の乱に功績のあった当麻国見によって、建立された氏寺であるとみられている。官寺と異なり、氏寺では、2基の塔を一度に造るのは財政的にも難しかったのだろう。様式が異なるのも、2基目の設計に入ったとき、さらに進んだ様式が大陸から入ってきたので、最新技術やデザインを取り入れたと考えられる。
 細部の様式等から、東塔は奈良時代末期、西塔はやや遅れて奈良時代最末期から平安時代初頭の建築と推定されている。東塔22.21m 西塔25.15m。東塔・西塔とも、国宝に指定されている。
 当麻寺は、聖衆来迎練供養会式が有名である。大和や京都、大阪、東京などの寺院において練供養を行うところは多いが、当麻寺は、その最古のものといわれる。
 練供養では、当麻寺に入山した藤原豊成(横佩右大臣)の娘中将姫が蓮糸曼荼羅を織り成し、聖衆の来迎を得て、生身往生を遂げるさまが、曼荼羅堂と娑婆堂の間に架けられた桟道上で再現される。
 この中将姫が織ったと伝えられている国宝「綴織当麻曼荼羅(つづれおりたいままんだら)」は、当麻寺の本堂曼荼羅堂に収められている。
 蓮糸で織ったといわれていた当麻曼荼羅を、昭和14年(1939年)、蓮博士として有名な大賀博士が、綿密に調べた結果、純絹糸のつづれ織りであり、蓮の繊維は使われていないことが明らかになった。
 残念ながら、当麻曼荼羅は、蓮糸によるものでないと結論付けられたが、蓮糸もより合わせると、かなりの強さになる。現存する最古の蓮糸織とされているのは、北九州市小倉の福聚寺にある「藕(蓮)絲織霊山浄土図」である。寛文9年(1669年)、小笠原忠真の供養のために、夫人が奉納したものである。紺色の絹地に、藕(蓮)絲の緯(よこ)糸で模様を織り出している。
 民主化の進展しつつある今話題のミャンマーでは、インレー湖畔でとれる蓮から糸を紡ぎ布が織られている。蓮糸で織った布は、強く丈夫で、僧侶の袈裟やマフラーにも使われているとのことである。今後、仏教の国ミャンマーとの交流が進み、ミャンマー産の蓮糸による曼荼羅が織られる時代が来ることを祈りたい。