65 南法華寺三重塔(奈良県高市郡高取町)

法華寺三重塔(奈良県高市郡高取町)

 壺阪寺は、壺阪山平等王院南法華寺の通称である。
 寺蔵の『南法花寺古老伝』によると、壺阪寺創建は、大宝3年(703年)に元興寺の弁基上人により開かれたとされる。南法華寺と言われる由来は、平城京法華寺に対する名称として、あるいは、京都の清水寺が北法華寺呼ばれるに対しての名称であるともされる。
 通称「壺阪観音」として知られ、古く「枕草子」などにもその名を残し、長谷寺などとともに平安時代からの観音霊場として知られた存在であった。
 壺阪寺といえば、誰でもが『人形浄瑠璃壺坂霊験記』を思い起こす。歌舞伎に取り入れられ、また、浪花亭綾太郎の浪曲「壷坂霊験記」によって、壺阪寺の名は、全国津々浦々に広められた。
 浪曲師浪花亭綾太郎(1893〜1960年。本名加藤賢吉)は、2歳で失明。7歳ころから流し按摩に従事するが、12歳のとき浪花節で身を立てようと決心し、初代浪花亭駒造に入門。21歳で綾太郎の名で看板披露。文字を持たなかったが記憶力に優れ、歌舞伎に材をとった演題は千を越えるという。中でも、「壷坂霊験記」は、綾太郎の十八番。
 「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ、ころは六月中のころ、夏とはいえど片田舎、木立の森のいと涼し」の有名なくだりにつづいて、「小田の早苗も青々と、蛙(かわず)の鳴く声、ここかしこ」と、たっぷり聞かせる。往時、綾太郎の名調子がここにさしかかると、遥かに遠いふるさとの、青田を渡る風の音までよみがえって、地方出身の聴衆を泣かせた。
 現代になって、さらに視覚障害者との深い関係が生まれている。 
 壺阪寺は、山間の地にあるにもかかわらず、観音様の霊験を求めて目の不自由な人々のお参りが絶えず、壺阪の地で最後を迎えたいという懇願が、毎日のように寄せられた。盲老人たちの切なる思いに動かされた先代のご住職は、たった一人で厚生省に乗り込み、厚生省の係員の前で座り込む。2日目には、手を合わせたまま身じろぎもせずに、盲老人ホーム建設の必要性を説き続け、ついに厚生省を動かした。昭和35年(1960年)10月からモデル事業という形式で、お寺の座敷を使い、6人の入所者からの出発。昭和36年(1961年)3月、全国初の盲老人ホーム「慈母園」が開設された。現在では50人ほどの入所者があり、沖縄から東北までの全国から集まっているという。
 三重塔は、国指定重要文化財室町時代の明応6年(1497年)創建、本瓦葺、高さ 23.06m。この塔がはじめて建てられた奈良時代の高い基壇の上に立っている。軒の出は深く、屋根の勾配は緩やか、純和様でまとめられた古色美しい三重塔である。
 境内にある「つぼさか茶屋」で昼食に沢市そばをいただく。茶屋に入ると、30代の女性が、「今日は、寒いですね。明後日になれば、ぬくうなると天気予報でいうてました。」と明るい声。
 沢市そばは、ゼンマイやイワタケの入った山菜そば。おいしく頂き、お勘定を払うと、にっこり笑顔で、「また来てください。」
 茶屋を出ると、境内には雪が舞い出していた。境内入口の石に、文字が刻まれている。なにげなく見ると、「以春風 接人」の5文字。小雪の舞う中ではあったが、心の底から春の暖かさがじわっと湧いてきた。