68 法観寺五重塔(京都府京都市)

法観寺五重塔京都府京都市

 京都を舞台にしたサスペンスドラマでは、この塔をバックにドラマタイトルが流れたり、京都の町並みを歩くシーンなど、いろんな場面で使われている。
 通称「八坂の塔」である。霊応山法観寺五重塔と言って、わかる人はまずいない。
 八坂通りから二年坂にかけての200メートル間で、平成20年度(2008年)から2年かけて実施されていた電柱の無中化工事(軒下配線)が、平成21年(2009年)3月完了し、前にもまして、八坂の塔が、遠くから見とおせるようになった。
 伝承によれば、法観寺五重塔は、592年に聖徳太子如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際、仏舎利を三粒を収めて法観寺と号したという。創建時の伽藍は四天王寺式伽藍だったようだ。聖徳太子創建との伝承は文字通りに受け取ることはできないが、平安京遷都以前から存在した古い寺院であることは確かとされており、朝鮮半島系の渡来氏族八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力である。
 治承3年(1179年)に火災で焼失したが、源頼朝により再建された。その後も幾度か焼失したがその都度再建されている。現在の塔は室町時代足利義教により再建されたものである。
 足利義教は、兄の義持が応永35年(1428年)1月に重病に陥ったとき、籤引きによって将軍に選ばれた。このことから、彼は「籤引将軍」とも呼ばれる。将軍となった義教は、幕府権威の復興と将軍親政の復活をめざして専制政治を行った。義教は有力守護大名家の家政に介入して斯波氏・畠山氏・京極氏・山名氏などの家督を意のままにし、一方で、一色義貫・土岐持頼らの守護大名を粛正した。義教の苛政は武士だけではなく、公家・僧侶にまでおよび、「万人恐怖」とよばれる時代を現出した。
 有力守護大名のひとりである赤松満祐もやがて討たれるであろうという疑念を生じ、追い詰められた満祐は義教謀殺を計画するにいたった。嘉吉元年(1441年)6月24日、結城合戦平定の祝賀と称して将軍義教を自邸に招いた満祐は、宴たけなわを見計らって義教を殺害してしまう。
 義教は、八坂の塔だけでなく、大滝山福生寺三重塔(岡山県備前市)、西國寺三重塔(広島県尾道市)などの創建あるいは復興に関わっている。将軍としての権力の誇示に拘ったのであろう。
 八坂の塔は、元和4年(1618年)に大修理、明治41年(1908年)に大改修された。純和様、本瓦葺、高さ40m、国の重要文化財に指定されている。中心の礎石は創建当初のものがそのまま使われている。初層内部には、大日如来を中心とする五智如来像を安置する。塔の中は公開されることもあり、礎石の上の心柱や諸仏を見ることができる。 また階段を二層目まで登ることもでき、窓から京の町並みを眺望できる。
 横浜の写真館の主人だった玉村康三郎(1856−没年不明)が、撮影した八坂の塔の写真が長崎大学に残され、その写真には、5層目に物見柵が設けられている。明治の大改修で物見柵は撤去されており、それ以前の写真であることが分かる。明治の改修以前には、入場料を取って、観光客を物見柵に乗せていたのかもしれない。
 玉村は、100万枚以上の日本の名勝・風俗の彩色写真の生産を行い、今もアメリカなどのアンティークショップなどで販売されているという。