25 横蔵寺三重塔(岐阜県揖斐郡揖斐川町)

横蔵寺三重塔(岐阜県揖斐郡揖斐川町

 樽見鉄道は、大垣駅を出て間もなく朱黄色の実と濃緑色の葉に覆われた、彩り豊かな柿畑を走る。山合いに近づくと谷汲駅谷汲駅からは、揖斐川町コミュニティバスに乗り、まだ緑を残す山間を15分ほどで谷汲山華厳寺に着く。
 華厳寺は、西国三十三ヵ所第三十三番札所、満願の寺であり、もみじ祭りの真っ最中で、大勢の参拝客と観光客と数多く立てられた幟で賑わっていた。
 横蔵寺(よこくらじ)は、谷汲山からバスを乗り継ぎたどり着く。秋も11月はじめ、木々がわずかに紅葉し始めている。華厳寺とハシゴしてくる観光客も多い。バスの客はひとつ手前のバス停で降ろされる。歩き始めると、農家の軒先には野菜の無人販売が並び、駐車場への呼び込みのおばちゃんの声が山間に響く。横蔵寺に着くと、三脚でカメラを構える人々で境内は大混雑。
 五木寛之氏が「最澄と山の民ゆかりの美濃の正倉院」(百寺巡礼第四巻 滋賀・東海(2008.12.12)第三十七番 横蔵寺)で描く情景とは、まったく違った様相をそこに見せていた。これも横蔵寺の素顔である。
 最澄は、弘仁8年(817年)、東国での布教のため弟子の円仁を伴い、東山道を通って上野の国と下野の国を訪れた。東山道ぞいに最澄の開基を伝えられる寺が多いのも、この東国行の影響である。
 横蔵寺の伝承によれば、最澄比叡山延暦寺を開創する際に、本尊薬師如来像を自ら2体刻み、その2体目の薬師如来像を笈に入れて背負いながら諸国を旅した。延暦22年(803年)、横蔵寺のある地まで来た時に薬師如来像が動かなくなった。一寺を建立して薬師如来像を祀ることにし、地元の三和次郎大夫藤原助基が、寺を建立したという(創建年は801年あるいは805年とも)。この薬師如来の胎内に納められた小金銅仏には、最澄が唐の天台僧から授けられたものとの銘文がある。これも、最澄の東国行の一例を示すものであろう。
 建立後、山上に多くの堂塔伽藍が建てられ栄えたが、元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山と前後して堂塔支坊すべてが焼かれてしまった。現在ある本堂、三重塔、仁王門など主要伽藍は、江戸幕府の保護を受け再建された。
 三重塔は、本堂の右手にある。寛文3年(1663年)完成したもので、桧皮葺、高さ17m、県の重要文化財しに指定されている。初層の軒隅下には竜頭の彫刻があり装飾が多い。三重塔の薄くなった化粧を周りのほのかに色づいた木々が補い、美しい。しかし、境内は狭く、周囲の立木が相輪を隠し、正面で撮ろうとすると、回向柱が邪魔をする。三重塔は写真にうまく収まってくれない。
 舎利堂には、即身成仏したという妙心法師のミイラが納められ、有料で観覧できる。妙心法師は、天明元年(1781年)に旧谷汲村で生まれ、諸国を巡って仏道修行をし、文化14年(1817年)、断食修行の後、今の山梨県都留市で即身成仏したという。当初は成仏した地の山梨県で保存されていたが、遺族らの要望により、明治23年(1890年)、本人の出身地の横蔵寺に移された。
 ミイラとなり永遠の生を受けた妙心法師の眼は、今の世をどのように眺めているのだろう。