28 最勝院五重塔(青森県弘前市)


最勝院五重塔青森県弘前市
 弘前市は、津軽藩10万石の城下町である。
 津軽藩は、津軽為信という、権謀術数に長けた戦国大名が作った藩で、江戸時代を通じて存続した。弘前は、江戸時代の初めに高岡城(後の弘前城)が築城されて、藩都となった。以来幕末まで津軽地方の中心として栄えた。
 明治維新になって、県庁は青森市に置かれ、行政の中心は青森市に移り、これが幸いし、弘前では、それほど開発が進まず、昔の建物が残った。代わりに陸軍第8師団が置かれ、軍都として発展し、戦後には、弘前大学が置かれ、青森県内の学問・文化の中心として発展した。
 駅前からは、100円循環バスが10分おきに出ており、観光客はもとより、多くの市民に利用されている。循環バスに10分ほど乗ると弘前城に着く。弘前市のシンボルはやはり弘前城である。慶長年間に造られた最初の弘前城天守閣は、五層であったが、これは落雷で焼失し、文化年間(1810)に三層の天守閣が再建され、現在に至っている。天守閣は、昔は櫓であったものを再建の際に移築して天守閣としたもので、姫路城などと比較すると非常に小さく見える。江戸時代のままの建造物といった点では風格がある。訪れたときは1月、雪に覆われた桜の木を前景とする城の姿はやはり少しさびしい、弘前城には、やはり桜がよく似合う。
 江戸期の天守閣の残っている城は全国で12城にしか残っていないが、弘前はその一つであり、東日本では唯一の現存天守閣である。天守以外にも3棟の櫓、5つの城門が現存し、いずれも重要文化財に指定されている。
 城の西南には、禅林街と呼ばれる33の禅寺を集めた町がある。長勝寺には江戸期の建物が残されている。その東南に最勝院があり、この最勝院に五重塔がある。この塔は、茂森山の続きの高台にあり、赤茶色の整った形の塔を遠くからでも見ることができる。
 この塔は、津軽藩の藩祖津軽為信津軽統一の際に戦死した敵味方の将士らを供養するという本願を、大圓寺第六世の京海が立て、その帰依者三代目藩主信義公によって、明暦2年(1656)に起工し、塔の三重目まで完成した時に、京海及び藩主信義が死去し、工事は一時中断し、寛文5年(1665)四代藩主信正公によって、工事が再開され、同7年(1667)に完成した。
 塔の高さは、31.2メートル、法隆寺五重塔とほぼ同じ高さであり、総高に対し、屋根の上の相輪部分が長いのが特徴である。平成3年の台風9号で塔が傾いてしまったが、修復工事が行われ、平成6年に復元された。
 塔は、当然、上層にゆくにつれて屋根の大きさがだんだん小さくなるが、一般には古い塔ほど初層に比して上層が小さく、逆に新しい塔ほど初層と上層との差が少ない。
 その中で、最勝院五重塔は、五重目の柱間が初重の半分であり、初層の屋根が大きく、上層にいくほど急激に小さくなるのが、特徴である。
 現在金剛山最勝院の所属であるが、昔は蓮光山大圓寺の所属であった。明治元年(1868)の神仏分離令によって、大圓寺大鰐町蔵館へ移り、その跡を最勝院が譲り受けた。近隣の人々は、今でも「大圓寺五重塔」と呼び親しんでいる。