29 日吉八幡神社三重塔(秋田県秋田市)

日吉八幡神社三重塔(秋田県秋田市

 「世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はない。」と著書に書いたのはイギリスの女性旅行家イザベラ・バードである。明治11年(1878年)5月から9月にかけて、通訳の伊藤鶴吉1人だけを連れ、横浜を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅し、『日本奥地紀行』(Unbeaten Tracks in Japan)を書いた。
 イザベラ・バードの「日本奥地紀行」は、旅行中に書かれた手紙を中心にまとめられたものであり、素直な印象が綴られている。その中で、「久保田(秋田市)は、秋田県の首都で人口3万6千、非常に魅力的で純日本風の町である。〜(中略)〜美しい独立住宅が並んでいる街路や横通りが大部分を占めている。住宅は樹木や庭園に囲まれ、よく手入れした生け垣がある。〜(中略)〜このように何マイルも続く快適な郊外住宅を見ると、静かに自分の家庭生活を楽しむ中流階級のようなものが存在していることを思わせる。」と書かれている。
 明治11年7月23日付、久保田(秋田市)で書かれた手紙の後半には、こうも綴られている。「私は他のいかなる日本の町よりも久保田が好きである…」と。
 秋田は、慶長7年(1602年)、佐竹氏が常陸から転封されて、久保田と改称された。秋田という地名は、大和朝廷の対蝦夷軍事拠点であった8世紀の秋田城にさかのぼり、のちに律令制度下の郡名として使われる。明治になったときに、近世の地名の久保田を取らず、古代、天皇制が確固としていた時代以来の地名を取ることで、明治新政府の姿勢を示したと考えられている。
 秋田市の官庁街にほど近い八橋(やばせ)運動公園の裏手に、歴史ある神社が雪の中、参る人もなくひっそりと鎮座していた。日吉八幡神社(ひえはちまんじんじゃ)である。
 藩政時代は、今の旭川を境に、東側は内町と呼ばれる侍町、西側は外町と呼ばれる町人の町であったが、日吉八幡神社は、外町の守り神として、「八橋の山王さん」ともいわれ、町人たちから親しまれてきた。神社は、外町からは遠かったため、人々は御輿をかついで町を練り歩く御差鉾行列を行い、自宅の前で商売繁盛や家内安全などを祈願した。
 日吉八幡神社は、本殿・拝殿・舞殿・随神門のほか三重塔・青銅鳥居などを有し、「歴史の宝庫」ともいわれている。
 朱塗りの木造三重の塔は、宝永4年(1707年)に豪商青木平兵衛が父の菩提供養のために建立したもの。銅板葺、高さ 約20m。秋田県内で唯一の三重塔。県指定有形文化財に指定されている。
 塔の内部は心柱、四天柱、須弥壇はなく、安置仏もない。塔の2層目に、鹿嶋・住吉・加茂・春日大明神の扁額を掲げている。
 随神門の中には、黒白の神馬、右大臣・左大臣が鎮座する。随神門も、県指定有形文化財に指定されている。
 本殿・拝殿は、明和年間の大火で類焼し、現在の拝殿は安永7年(1778年)、本殿は寛政9年(1797年)に建てられたものである。この社殿は「権現造り」で見事な彫刻類から「秋田の日光廟」と呼ばれている。
 イザベラバードは久保田の市街から旧国道をたどり、土崎港へと歩んでおり、この日吉八幡神社の脇を通っているが、果して彼女は、この三重塔を見ただろうか。