30 乙宝寺三重塔(新潟県胎内市)


乙宝寺三重塔(新潟県胎内市

 胎内(たいない)市は、新潟県北東部にある市。平成17年(2005年)9月、北蒲原郡中条(なかじょう)町と黒川村が合併して、胎内市となった。市名は飯豊山地に源を発し、市域を貫流して日本海に注ぐ胎内川にちなむ。
 平安末期、胎内川扇状地を中心に摂関家領奥山庄(おくやまのしょう)が開かれた。同庄は中世には三浦・和田一族(後の中条氏)による開発が進み、『奥山庄波月条(なみつきのじょう)絵図』(国指定重要文化財)が残る。古くから臭水(くそうず)(石油)の産地で、『日本書紀』にみえる「越国」が献上する「燃ゆる水」(臭水)の産地だったといわれる。昭和35年(1960年)に中条、紫雲寺(しうんじ)ガス田の開発が進み、豊富な天然ガスを原料とするガス化学コンビナートが建設され、化学工業都市に発展。クラレ、協和ガス化学、ジャパンエナジー日立製作所などの工場がある。
 羽越本線無人駅 平木田駅から約4km、徒歩約50分。胎内市の北部、日本海も真近いところに乙宝寺(おっぽうじ)はある。駅前の集落を過ぎ、よく整備された田んぼの中をひたすら日本海東北自動車道を目指して歩く。自動車道を抜けると乙(きのと)の集落となり、まもなく乙宝寺に着く。
 乙宝寺は、天平8年(736年)に聖武天皇の勅命により行基菩薩、婆羅門僧正らが北陸一帯の安穏を祈り開山したと伝えられる。
 また、乙宝寺は、猿供養寺とも呼ばれる。今昔物語の「第百廿六 越後国乙寺の猿」に猿の供養の話が載せられている。
 二匹の猿が、乙寺の僧にお願し写経を進めたが、第5巻に至った時に、二匹の猿は死んでしまう。不愍に思った僧は、菩提を弔い、その猿の写経しかけた法華経を、仏像の前の柱を彫って、その中に収めた。その後40年を経て、越後国の刺吏となった紀躬高朝臣が、乙寺を訪ねてくる。このとき、僧は80を過ぎて、まだ健在だった。老僧に、「私は昔猿だった。僧によって発心し、法華経を書写した。その経を書写し終えたい。」と言った。老僧はその話を聞いて、一心に精進して、ついに書写を終えたと、語られている。
 乙宝寺は、新潟県屈指の古刹であり、境内には国の重要文化財である三重塔や、方丈殿、六角堂、弁天堂、観音堂地蔵堂が建つ。宝物殿には、猿が写経した木皮経など多くの文化財を収蔵・展示している。また、松尾芭蕉奥の細道の途中で立ち寄り、寺内には句碑がある。
 室町時代後期には、上杉氏が寺領300石を寄進し保護の手を加え、近世初期には、村上城主村上義明の帰依が厚かった。
 現在の三重塔は、村上城主・村上義明が願主となり、京都の工匠 小島近江守藤原吉正により慶長19年(1614年)起工、元和6年(1620年)に完成した。国の重要文化財、杮葺、高さ 24.2m。和様の洗練された三重塔である。
 12月中旬、寒さはひと段落とはいえ、海から冷たい風が吹き付けるうす曇りの寒い日であったにも拘わらず、境内には、10数人の参拝客が訪れていた。住職の奥さまは、参拝客は少なく、今後何か手だてを講じないとやっていけなくなるとのお話をしていた。
 新潟一の古刹とはいえ、または古刹であるが故か、寺の維持管理は大変なようである。