31 西福寺三重塔(埼玉県川口市)

西福寺三重塔(埼玉県川口市
 行く春や あとへもどらぬ 鐘の音   巨川
 西福寺に建立されている碑にある句である。しかし、句碑は苔むし、「巨川」は読めるが句の文字は残念ながら判然としない。
 巨川とは、草加市の人 谷古宇甚五郎の俳号であり、天保13年(1842年)の句。川口の安行の高台にある西福寺の鐘の音は、巨川の家にも聞こえたであろう。 
 西福寺は、真言宗豊山派の寺で、弘仁年間(810〜824年)に弘法大師が国家鎮護のため創建したと伝えられる古刹である。
 入口正面にある観音堂には、西国、板東、秩父札所の百の観音像が安置され、この一堂を参詣すれば、百ヶ所の観音霊場を参詣したのと同じだけのご利益があるとされ、寺は「百観音」とも呼ばれる。近くを日光御成街道が通り、江戸庶民にとって格好の物見遊山の場所だった。 
 また、徳川家も日光東照宮参詣の道すがら立ち寄るなど、徳川家の信仰も篤く、三重塔は、3代将軍家光の長女千代姫が願主となり、元禄6年(1693年)に江戸牛込の大工、内木市兵衛によって建立された。高さ23メートル、銅板葺、県指定文化財。埼玉県では一番高い木造の建物である。
 千代姫は尾張藩主の徳川光友に嫁ぎ、塔が完成して5年後に亡くなり増上寺に葬られるが、位牌はこの塔の中に納められているという。
 西福寺の相輪は、竜車と宝珠が大きく、この中に観音と毘沙門天が納められている。相輪に安置された観音と毘沙門天の開帳の際には、櫓を組んで塔の頂上まで参詣者に登らせた。御開帳の日には、物見高い江戸っ子で大変賑わった。
 かつて、塔の周辺は樹木でうっそうとしていたそうであるが、今では、駐車場を前景としさびしく立つ。
 西福寺と低地を挟んで反対側は、関東郡代の赤山陣屋の出丸であった。
 関東郡代は、徳川家康の関東入府の際に、伊奈忠次を関東の代官頭に任じたことに始まり、その後12代200年間に渡って伊奈氏が世襲した。3代忠治より代官から関東郡代となる。
 伊奈忠治は、寛永6年(1629年)、芝川下流域の灌漑用水の確保のため、長さ約870m(8町)の堤防「八丁堤」を建設し、この灌漑用ダムを「見沼溜井」と称した。平均水深2.7m、周囲約40kmにも及ぶ溜井により下流の灌漑は成功したが、その一方で、見沼周辺では多くの田畑が水没した。
 その後、享保年間に至り、将軍徳川吉宗は、勘定吟味役紀州藩士 井沢弥惣兵衛を登用して、見沼溜井の干拓を開始した。井沢は溜井に代わる水源として見沼代用水を利根川から約60kmにわたり開削して灌漑用水とする一方、八丁堤を破り、溜井の最低部に排水路を開削して芝川と結び荒川へ放水する工事を行った。見沼干拓後、新田面積1,172haの見沼田圃が完成した。
 昭和9年(1934年)には、東京市は、村山貯水池(多摩湖)・山口貯水池(狭山湖)に続く第三の貯水池の建設場所を見沼田圃一帯とする計画を発表した。しかし、水没対象となる地域の農民らの反対運動により、昭和14年(1939年)、東京市は貯水池計画を撤回した。
 昭和40年(1965年)になると、埼玉県は「見沼三原則」を定め、高まる開発圧力に対し治水上の観点から農地の転用を厳しく制限した。
 見沼田圃は、政令指定都市さいたま市」の東部に、大都市近郊で最大級の貴重な田園空間として、今も残されている。