33 法用寺三重塔(福島県大沼郡会津美里町)

法用寺三重塔(福島県大沼郡会津美里町
 法用寺(ほうようじ)は、会津美里町(旧会津高田町)にある天台宗の寺院。山号は雷雲山。院号は妙行院。本尊は十一面観音。
 この寺は、寺伝によれば養老4年(720年)西国霊場の始祖といわれる徳道(得道)上人によって創建され、大同年間(806年 - 810年)徳一上人が中興したと伝えられる。
 会津若松駅から只見線に乗り換え30分、無人駅根岸で下車。根岸駅から田圃の中を10分も歩くと米沢の集落。米沢の集落からさらに10分歩くと雀林(すずめばやし)の集落となる。この集落の山裾に法用寺はある。
 かっては会津地方の天台宗の中心的立場の古刹で大きな影響力を持ち、大いに栄えたといわれている。現在の法用寺は、写真だけを掲示した仁王門、鐘楼、観音堂そして三重塔を残すだけで、寂しい限りである。
 ケヤキの一本彫りの金剛力士像(観音堂内に吽形のみ)や観音堂内の厨子及び仏壇は国の重要文化財に、三重塔は県の重要文化財に指定されている。観音堂の前に会津五桜の一つ「虎の尾桜」があり、会津美里町の天然記念物に指定されている。
 三重塔は、江戸時代中期 安永9年(1780年)に完成、銅板葺、高さ 約19m。禅宗様の末期的手法によったもの。初重から三重までの屋根の大きさの差が少ない。何度か修理が繰り返され、彩色が失われ、もの寂びた古塔ぶりである。初層の軒にある丸彫りの竜頭が、爪をたてて迫力満点に迫ってくる。 
 会津は仏都といわれるほどに古刹の多い地域であるが、法用寺の三重塔以外に五重塔、三重塔はなく、地域のシンボル的存在である。三重塔や五重塔は、普通、二層目、三層目に人を上らせる構造となっていない。法用寺の三重塔は右側に回り込むと、四天柱の裏面に階段が見える。江戸期には信者を上層部に上らせ、遠く望める磐梯山飯豊山、眼前に広がる会津平野の眺めを、参詣者を集客する目玉としていたのかもしれない。
 会津高田町雀林の出身者で、中野(旧姓小林)寅吉がいる。中野は、天才歌人石川啄木を殴った会津人として名を残している。
 明治40年(1907年)、北海道・小樽で「小樽日報」の記者だった啄木は無断欠勤し、同じ新聞社の事務長だった中野に殴られ足蹴にされ、即刻退社した。だが翌年、啄木は小樽を去る時、中野と握手を交わしたという。中野は、「反骨、実直な努力力行型の熱血漢」であった。その熱血漢を啄木は情感を込めて歌った。

 あらそいて
 いたく憎みて別れたる
 友をなつかしく
 思う日も来ぬ

 
 敵として憎みし友と
 やや長く手をば握りき
 わかれといふに                   「一握の砂」より

 その後、中野自身も退社し各地を転々。勤務した警視庁では政争に巻き込まれ解雇。発奮して福島県選出の憲政会の代議士となり、国会で活躍し、帝国議会に「蛮寅」の勇名を謡はれた。引退後、仏門に帰依し、忍海と名乗り故郷の法用寺の住職になった。
 この歌が発表されたのを見た中野は、啄木が社を辞めてから一度も会っていないのだから、手など握るわけがないと言って怒っていたそうである。
 啄木の虚構の歌の一つと言われている。
 三重塔の右手に、「敵として・・・」は斜め前方を向いて、「あらそいて・・・」は天空を向いて、歌碑が建っている。