35 新海三社神社三重塔(長野県佐久市)

新海三社神社三重塔(長野県佐久市
 JR小海線に「龍岡城」という駅がある。
 駅名由来の龍岡城は、駅を出て東に1.6km、徒歩20分のところにある。龍岡城は、五芒星形の西洋式城郭であり、函館五稜郭に対し、龍岡五稜郭ともいわれる。
 信濃国三河国に領地を持つ三河奥殿藩の藩主だった松平乗謨(のりかた)は、幕末の動乱期に拠点を田野口に移すことを決める。開明派だった松平乗謨は洋式築城での設計を幕府に届け出て許可を得、元治元年(1864年)、築城を開始。完全な完成前に明治維新を迎えた。
 松平乗謨は幕政に参与し、陸軍奉行、若年寄、老中に栄進し、朝廷との交渉役や陸軍総裁を務めている。その後、戊辰戦争を契機に陸軍総裁、老中を辞任。そして幕府との訣別を表明するため、大給恒(おぎゅう ゆずる)と改姓した上で信濃に帰国し、新政府に帰順する意思を表明した。
 明治維新後には、元老院議官となり、西南戦争の際、佐野常民とともに国際赤十字社に倣って、博愛社日本赤十字社の前身)を創設。大給恒は副社長に就任して,敵味方の区別なく、けが人や病人の救護を行った。
 龍岡城は、明治5年(1873年)に廃城となり建物などは破棄された。五芒星形の形状や土塁、石垣、堀などの遺構は現在に残り、建物では御台所櫓が唯一保存されている。洋式城郭で2例しかない五稜郭であることなどから、龍岡城は昭和9年に国指定史跡に指定されている。
 龍岡城から新海三社神社へと続く道に戻ると、田野口藩の菩提寺であり、長野県内屈指の規模の本堂を持つ蕃松院(ばんしょういん)がある。蕃松院では、平成の大修理との看板を掲げ、参道や山門の修理を進めていた。神社への道の両側は、武家屋敷であったかと思われる長い塀と立派な門構えの家々が続く。
 新海三社神社は、龍岡城から、さらに東に1.5km、20分ほどである。
 参道入口には非常に大きな鳥居があり、参道の石段の左右には立派な社叢がある。そこは、真夏の暑さを忘れさせてくれる。
 参道を突き当たり、階段を上ると正面に拝殿。右手に神楽殿。拝殿の後方に、西本社と中本社、二棟並んだ本殿。境内の右手、本殿の東側にもう一つの本殿・東本社がある。
 中本社には健御名方命、西本社に事代主命誉田別命、東本社に興波岐命(おきはぎのみこと)が祭られている。
 三重塔は、様式上から室町期のものと認められ、新海三社神社の神宮寺の塔として、永正12年(1515)建立されたと推定されている。こけら葺き、高さ18.9m、国の重要文化財である。和様を主とするが唐様(禅宗様)も混在し、初重(唐様)と二、三重(和様)の垂木の方向の違い等にそれが見られる。
 明治の神仏分離の際、神宮寺は移転させられるが、塔は神社の宝庫であるとの主張がとおり、そのまま残された。東本社の背後、一段高い所に立つ、その姿は、社殿とまったく違和感はない。
 島崎藤村は、神仏分離すら全うできなかった「御一新」の体たらくが我慢できず、菩提寺に火をつけた「夜明け前」の主人公青山半蔵を通じて、「王政復古」がいつのまにか「脱亜入欧」にとってかわった明治維新とは何であったのかを問うている。
 私たちも、歴史の本質、日本人の本質とは何かを、深く考えなくてはいけないのかもしれない。