39 光前寺三重塔(長野県駒ケ根市)

光前寺三重塔(長野県駒ケ根市)
 長野県駒ヶ根市静岡県磐田市とは、約700年前から伝わる早太郎(または悉平太郎(しっぺいたろう))伝説をもとに、友好都市交流が進められている.
 昔、光前寺に早太郎というたいへん強い山犬が飼われていた。その頃、遠江の見附村では、毎年田畑が荒らされ、その被害に困った村人は矢奈比売神社の祭りの夜に村の娘を人身御供として神様に差出し、これを鎮めていた。
 延慶元年(1308年)8月、この地を旅の僧侶が通りかかり、神様がそんな悪いことをするはずがないと、祭りの夜にその正体を確かめると、現れた怪物が「信州の早太郎おるまいな、早太郎には知られるな」と言いながら娘をさらっていった。
 僧侶は、早速信濃へ行き、光前寺で早太郎を探し出し和尚から借受けた。そして次の祭りの日、早太郎は、娘の身代わりとなって怪物(老ヒヒ)と戦い、見事退治した。戦いで深い傷を負った早太郎は、光前寺までたどり着くと、和尚にひと吠えして息をひきとったと言われている。 早太郎を借り受けた僧侶は、早太郎の供養のために大般若経を光前寺に奉納した。
 遠江国見附村は、現在の磐田市見付である。見付天神の祭は、裸の群衆が町中を乱舞することから「はだかまつり」と呼ばれている。「早太郎」がヒヒを退治したことを喜んで、男達は裸になり、腰蓑を付けて町内を乱舞して歩いたことが始まりだとされている。
 光前寺(こうぜんじ)は、長野県駒ヶ根市にある天台宗の別格本山の寺院である。山号は宝積山(ほうしゃくさん)。院号は無動院。本尊は不動明王秘仏貞観2年(860年)、円仁の弟子、本聖の開基と伝わる。天正慶長のころには武田氏、羽柴氏などの庇護を受け、また、佐久郡、諏訪郡にまでその寺領を広げた時期もあったという。江戸時代には、徳川家から地方寺院としては破格の大名格を与えられ隆盛を極めた。明治以降の廃仏棄釈の政策によって、多くの末寺が廃寺となり、規模は小さくなったが、現在でも県下随一の広さを誇っている。
 境内は、杉の木立で覆われ、樹齢数百年の巨木も多い。道隆式池泉庭園や築山式枯山水、築山式池泉庭園と三つの庭園があり、さらにはヒカリゴケが自生している。境内全域が、「光前寺庭園」の名で名勝に指定されている。
 経蔵には、大般若経が寺宝として保管され、本堂の横に早太郎の墓が祀られている。
 三重塔は、文化5年(1808年)に宮大工 立川和四郎により再建された南信州唯一の三重塔。県指定文化財。屋根は柿葺、高さ 17.1m。均整のとれた美と施された彫刻の美しさを見せている。
 今年は、光前寺が開創されてから1150年という節目の年。そして、7年に一度のご開帳にもあたる年で、春、秋の2回ご開帳が行われている。
 ちょうど訪れたときは、台風の余波がまだあるにもかかわらず、秋のご開帳で、大勢の観光客が訪れていた。本堂に入ると、厨子内に御本尊の不動明王、その周りには八童子が立ち並ぶ。厨子の背後には、四天王の像と前立ち御本尊が置かれている。いずれも、何度も火災にあいながら、そのたびに修復されたものとのこと。
 御本尊に結ばれた紐を握り、若住職にご印紋を授かりながら祈祷を受け、光前寺名物の門前の「赤飯饅頭」へ。赤飯饅頭は饅頭の餡の代りに赤飯が入ったもの。寒さの中で温かさと甘さが身体に沁みる。