67 道成寺三重塔(和歌山県日高郡日高川町)

道成寺三重塔(和歌山県日高郡日高川町

 道成寺は、文武天皇の妃となった宮子姫(かみなが姫)の伝説や安珍清姫の説話で名高く、歌舞伎や能の舞台としても広く知られる。
 最寄り駅は、JR紀勢本線道成寺駅」であるが、列車の本数が少ないので、「御坊駅」から歩く。朝の通勤時間帯で、かなり交通量のある国道を身を小さくしながら、歩くこと20分。道成寺駅の手前で国道を左折し、JRの線路を越える。観光バスの駐車場やら土産物店があり、その奥に石段が見え、石段のつきるところに仁王門が聳えている。石段は62段、能「道成寺」の「乱拍子」は、白拍子がこの階段を登るところを表現したもの。
 階段を上りきり仁王門をくぐり抜けると、正面に本堂(重要文化財)、左手に大宝殿、右手に三重塔と鐘楼跡。
 この寺には釣鐘はない。延長6年(928年)、「安珍清姫」の事件が勃発、この時焼かれた鐘は安珍の亡骸と一緒に埋められた(これが初代の鐘)。これより四百年後、正平14年(1359年)、源万寿丸清重なる豪族が、後村上天皇に仕えて武勲をあげ、道成寺を含む日高郡矢田庄を賜り、現在の本堂や釣鐘を寄進している。この二代目の釣鐘の鐘供養を扱ったのが、能「鐘巻」や「道成寺」である。およそ二百年後の天正13年(1585年)、豊臣秀吉紀州攻めの際この鐘は持ち去られ、京都の妙滿寺に納められている。
 三重塔は、基壇の下に奈良時代に建てられた三重塔の遺構が残っていると推定されているが、すでに戦国時代には、「塔は無く、礎石ばかりなり」と記されている。宝暦2年(1752年)、当時の住持盛寛が、塔婆の再建を企て、壇徒と図って資金を募り、宝暦13年(1763年)に地元の大工藤兵衛の手により、古代の塔跡に再建された。本瓦葺、高さ 21.82m、全体に均衡がとれている。地元工匠の労作で、和歌山県内唯一の三重塔であり、県の重要文化財に指定されている。江戸時代の塔には、過剰な装飾があるものが多いが、過剰な装飾が関西では珍しい。
 塔の一、二階の屋根は、平行垂木で、三階は扇垂木となっている。平行垂木は一般的な工法で、扇垂木は美しい反面、一本一本の垂木の形が違う、複雑な工法である。
 これについて、不思議な言い伝えが「川辺町史」に記されている。
 三重塔を再建していた棟梁が、二階まで組み上げて、下に降りて休憩していた。すると、一人の巡礼が通りかかり、話しかけた。
  「棟梁や、扇垂木って知ってるか?もっと美しい塔にできる方法があるぞ。」
 棟梁は、巡礼の言うとおりに三階を扇垂木にしてみると、見映えが一層良くなった。
 「ああ、一階も二階も扇垂木こうしとけば良かった。わしも素人に教わるようでは…」と後悔して、完成後に、三階から鋭いノミを口にくわえて飛び降り自殺をしてしまった。
 いくつかの本にも載っている民話で、話としては面白いが、そんな事実はないようだ。住職が、三重塔が完成した宝暦13年(1763年)の過去帳を調べて見ても、棟梁らしい人はいなかった。信じがたい言い伝えが生まれた理由は分からないままである。おそらく、晩酌が過ぎて「飲み」で命を落としたのではないかが、住職の行きついたオチである。