71 名草神社三重塔(兵庫県養父市)

名草神社三重塔(兵庫県養父市

 出雲大社にあった三重塔が、江戸初期に妙見宮に譲られ、明治の神仏分離で、名草神社に遷され、名草神社三重塔と呼ばれている。
 中世、出雲大社は、神仏習合がすすみ、出雲にある天台宗鍔淵寺が、「別当」に相当する地位になっていった。鍔淵寺文書には、大永6年(1526年)6月、尼子経久が、出雲大社三重塔を攝津の宮大工に発注、大永8年(1528年)、兵庫の港から海路長門を廻り、出雲小土地の港に到着し、出雲大社三重塔が建立される。落慶導師は、鍔淵寺竹本坊法印栄伝であった。釈迦・文殊・普賢の三尊が安置され、外には彫刻が施され丹青の漆が塗られていた。四方の檀の障子には、涅槃像が描かれていた。
 江戸時代に入り、第68代の国造千家尊光は、北島国造恒孝とともに出雲大社の復興を企て、寛永15年(1638)に入府し、松江藩松平直政の支援を得て大改革を断行した。徳川幕府も50万両を奉納して援助。境内地にあった堂塔を廃し、社殿を高さ80尺という古来の正殿式に復興することになった。
 しかし、神殿の用材を調達しようとしたが、適材が容易に見つからず、最終的に「妙見山の妙見杉」が候補とされた。大社側からの妙見杉を用材にしたいとの要請を、妙見山帝釈寺日光院は、快く受諾する。
 日光院第38世快遍阿闍梨は、妙見杉譲渡の経過の中で、三重塔撤去のことを聞き、三重塔の譲渡を懇願、大社側は快諾する。
 寛文4年(1664年)10月、解体した三重塔の部材を小土地の港から搬出し、宇竜港を経て、但馬の香住に回航された。攝津から瀬戸内海・日本海を経由し出雲大社へ、140年後、日本海伝いに但馬に回送され、信者3500人によって妙見山に運ばれ、復元された。数奇な運命をたどったものである。
 出雲大社は、寛文7年(1667)、現在のような堂々たる規模の威容が完成する。
 名草神社は、山陰本線八鹿駅から西方15.5km、妙見山中腹に鎮座する五穀豊穣の守護神で、彩色を施した拝殿と日光東照宮の設計を取入れた本殿からなり、ともに平成22年に国指定重要文化財に指定された。
 日光院は山下にあり、飛鳥時代敏達天皇(572年)のころ、日光慶重の御開創に始まり、第二世慶覚、第三世覚重を経て、第四世重明の時代に本尊妙見堂及び、本地仏薬師瑠璃光如来を本尊とする薬師堂が、この地に建立された。本殿、本堂(薬師堂)などの諸堂宇をもち、妙見大菩薩・本地薬師如来などを祭祀し、但馬妙見信仰を護り、日本三妙見の随一といわれる。妙見山の名も、日光院の妙見大菩薩(但馬妙見)に由来する。
 三重塔は、昭和59年積雪によって屋根が落下し、大修理を行い、昭和62年に完工。
 総高23.9m、杮葺。初重内部は四天柱があり、来迎壁・須弥檀を造るが、安置仏は無いとされる。初層に稚拙ではあるが、面白い意匠がある。四隅に隅垂木を担ぐ力士像と上層の尾垂木にはそれぞれ猿の彫刻が乗る。
 「妙見宮とは日光院」そのものであり、妙見三重塔あるいは日光院三重塔と言うべきなのかもしれない。塔がなんとなくそぐわない感じがしたのも、看板に大書された「名草神社三重塔」のせいであったのかもしれない。